飯田覚士さんの挑戦




Text By 船橋真二郎
Photo By 山口裕朗


「単なるボクシングジムというわけではないし、スポーツジムというわけでもない。かといって体操教室と思われると違うし。これという言葉がないので、うまく伝えるのは、なかなか難しいんです」
と、元WBA世界スーパーフライ級チャンピオン・飯田覚士さんは苦笑した。飯田さんの意図するところがうまく伝わらないわけは、おそらくそれが、今までにない新しい試みでもあるからだろう。

 エレベーターの扉が開き、一歩足を進めると、そこには明るく快適なスペースが広がっている。クーラーによって一定に保たれた室温。吹き抜けになった天井のガラス窓からは、陽の光が差し込む。
“元世界チャンピオンがジムをオープン”
7月20日、東京都中野区にオープンした飯田さんのジム、その名も「ボックスファイ(BOXφ)」は、たとえばそういったフレーズから連想されるイメージとはやや趣が異なっている。確かにジムにはサンドバッグとパンチングボールが備えられているし、棚に置かれたパンチンググローブやミットが目に留まる。だが、プロボクサーの育成が飯田さんの目的なのではない。ジムには合わせて3種類のコースが用意されている。サンドバッグをたたいたり、ミット打ちをしたりと、主に健康増進やストレス解消を目的に、中学生以上の一般男女が体を動かすことができる「ボックスファイジム」。ボクシングの動きを取り入れ、音楽に合わせて体を動かすことで、健康、美容、ダイエット、ストレス発散を図る女性専用のプログラム「ボックスファイレディース」。そしてもうひとつが幼児から小学生向けのプログラム「ボックスファイキッズ」である。これだけだと、男女を問わず子どもから大人まで、様々な層の人たちが気軽にボクシングを通して健康を図るボクシングジムであり、スポーツジムでもあると捉えられるかもしれない。もちろんそれは、飯田さんの意図するところであるのだが、ただそれだけではない。このジムの特筆すべき点であり、冒頭の飯田さんの苦笑にもつながってくるのが、広い意味での子どもの育成を目的とした、「ボックスファイキッズ」なのである。

 その「ボックスファイキッズ」の様子を見学するため、ボックスファイを訪れたのは、オープンから10日余りが経った日の午前だった。キッズとレディースは、曜日と時間が設定されたクラス制になっている。ところがその日、予約が入っていた3人のうち、兄弟で申し込んでいたふたりがキャンセル。参加したのは小学校低学年の男の子ひとりになってしまった。オープン以来、日によって参加人数にばらつきがあるようだ。それは、まだ日が浅いからということだけでなく、すでに夏休みに入ってしまっていることが大きいそうである。
「学習塾とか、その他の習い事があるとか。当初の予定では、オープンは7月上旬だったんですが、ちょうど夏休みに入る頃になってしまって」
近頃の小学生は、夏休みとはいえ、なかなか忙しいものであるらしい。
「よろしくおねがいします!」
プログラムは元気な挨拶で始まった。そして、まずは女性インストラクターが前に立ち、音楽に合わせて体を動かすウォーミングアップから。たとえば左右の足を前後に開いたチョキの形にして、交互に足を踏み替えながら、左右の手を足とは逆に前後させる動作を繰り返したりする。次にフロアに置かれたロープのはしごの上を、一マス一マス、ロープの枠を踏まないようにテンポよく駆け抜ける。ここからは飯田さんも加わって、男の子といっしょに体を動かしながら、「よく見て、ゆっくりでいいからな」など声をかけ、直接、指導に当たる。同じくロープを踏まないように、今度は一マスごとに右、左と足踏みしながら進んだり、“ケンケンパ”で駆け抜けたりと、じょじょに動きの難易度は上がっていく。次に、飯田さんがロープのはしごの端にかがんで、はしごのマス目の中に立った男の子と向かい合う。そして、「(飯田さんから見て)左が○、右は×、上は△」などとルールを決める。男の子は飯田さんが「○」と言ったら素早く反応して、(男の子から見て)右の壁まで走り、「×」と言ったら左に走る。「△」の場合はロープを踏まないように、その場で上に向かってジャンプをする。それを何度か繰り返すと、今度は男の子が後ろ向きになって、同じやり取りを繰り返す。この場合、男の子から見ると左右が逆になるわけである。これが言わば1セット。その次に記号を入れ替えたり、さらに「□」や「☆」などの新しい記号を加えて左右をそれぞれふたつずつに増やしたり、また、決まった記号ではなく、「動物の名前を言ったら右、食べ物だったら左、それ以外は上」と決めたりして、同じく前向き、後ろ向きの1セットずつを繰り返す。その他にも、あぐらをかいたまま、起き上がりこぼしの要領でフロアをグルグル転がったり、四つんばいと反対に仰向けになって、後ろ手をついた状態でフロアを歩き回ったり、男の子に向かって投げられたカラフルなゴムボールを両手で受け取ったり、左右それぞれの手でたたき落としたり……などなど、実に様々なメニューで、合間に休憩を挟みながらの約1時間を、男の子は嬉々として体を動かしていた。
「ありがとうございました!」
最後も元気な挨拶で、その日の「ボックスファイキッズ」のプログラムは締め括られた。

 一見すると、ゲーム性も取り入れながら、子どもが楽しく体を動かせるよう工夫がこらされた、体操教室のようにも思われる。だが、実はそのメニューひとつひとつの動きの中には、飯田さんが現役時代に行っていた様々なトレーニング理論が取り入れられているのだ。
まず“身体を巧みに動かす能力”という意味であるコーディネーション能力を高めるための「コーディネーショントレーニング」。身体のいろいろな場所には固有受容器と呼ばれる感覚神経の末端にある器官が存在するという。身体に加えられた刺激から、位置や動き、力の感覚を感じ取る器官のことで、簡単に言えば「体にとってのセンサーの役割を果たしている」(飯田さん)という。中には普段の動きの中ではあまり刺激を受けないために、眠ってしまっているような感覚もあるのだが、適切な運動によって、意識的にそういった感覚に対しても刺激を加えることで、神経と筋肉をスムーズに連動させ、効率的に動作を行えるようになるのだという。次に左右の眼の動きを適切にコントロールさせることで、動体視力や空間認知能力などを高める「ビジョントレーニング」。ビジョンとは「視力」ではなく「視覚」を意味する。対象物の動き、また対象物との距離感を正確に把握したり、背景などの対象物以外も含めた、眼から入ってくるすべての情報を効率よく認識し、分析し、理解したりする能力のことで、この言わば「視覚力」とでもいうべきものは訓練することで高めることができるのだという。その能力が高まることで、物事を正しく判断する能力や適切な行動を瞬時に選択する能力が養われていくのである。そして、感性やイメージする力などを鍛える、「右脳トレーニング」である。
こういったトレーニング理論を飯田さん自身がアレンジし、子どもたちが楽しく体を動かす中で、「集中力」や「判断力」「想像力」「危険察知能力」などが、自然と向上していくよう総合的に組み合わせた。つまり現役時代にボクシングを通して、それらトレーニング理論の効果を自ら実証、体感している飯田さんならではのプログラム。それが、「ボックスファイキッズ」なのである。飯田さんは言う。
「本来、こういった能力は子どもが外で遊んでいるうちに、自然と身につくはずのものなんです。ところが、最近の子どもはTVゲームをしたり、学習塾に通ったり、あまり外で遊ばなくなってきている。環境的に難しくなってきているという面もあるとは思いますが、ケガをするからとか、危険だからと親が遊ぶ範囲を制限する場合もある。ただこういった能力を養うことは、子どもが成長していく上で土台になる、とても大事なこと。スポーツに活かされるだけじゃなくて、勉強でも日常生活にも活きてくるんです」
実際、飯田さんがコーディネーショントレーニングを行っていた名古屋市の若田接骨院では、子どもたちの成長に必要な基礎体力が、近年、低下していることを危惧し、昔の子どもたちの遊びを再現するような形でトレーニングを行う「キッズトレーニング」という教室を開いているし、ビジョントレーニングを行っていた特別視機能研究所では、ビジョントレーニングによって、子どもたちが勉強や毎日の生活の中で正しく判断して行動したりする土台作りを目的にした教室がスタートしている。
「ボクサーを育てるのが目的ではなくて、ここを卒業した子どもたちが、サッカーとか野球とか他のスポーツで活躍してくれたら、それは嬉しいし、勉強でいい成績を上げたり、将来、様々な分野の仕事で活躍してくれたりしてもいい。本来、子どもが持っている可能性を最大限に引き出してあげたいんです」
トレーニング理論だけではない。子どもを受け入れる体制作りも万全である。現在、ジムにふたりいる女性インストラクターは、教員の資格を持っていたり、幼稚園や学童保育所などで働いたりと、子どもの教育に携わった経験を持っているという。また、事務管理を引き受けるゆかり夫人は短大の保育科を卒業しているし、現在、小学生になるふたりの男の子を育てている。
「子どもの教育と言ってはおこがましいんですが」
と飯田さんは謙遜するが、これはもう立派な教育だと言っていい。

 飯田さんが子どもたちに対してこのような活動を始めたのは今年の2月。杉並区の貸スタジオを借りて行った「キッズ塾」がスタートだった。そして、同時に行っていたのが女性向けの「レディース倶楽部」。もともと引退した頃から、エクササイズとしてのボクシングの普及、底辺拡大に関心を持っていたのだという。スパーリングさえ行わなければ、子どもでも女性でも誰でもできるし、全身運動として基礎体力アップやダイエットなどに効果的であるということを、もっと広めていきたいという夢が飯田さんの中にはあった。
そんな飯田さんの考えに関心を持った人たちが集まって、具体的な動きを模索し始めたのは一昨年の暮れ頃だったという。最初の構想は「親子ボクシング教室」。イベントとして全国各地を回るというものだった。ところが幾度となく打ち合わせを重ねるも、形になりかけては壊れるということの繰り返しで、なかなか実現には至らない。
「だったら自分でやっちゃおうかな?(笑)って考えたのが去年の暮れ。去年の8月から、携帯サイトで『飯田覚士ボクシング塾』を始めていたので、それをイベントという形ではなく、どこかに場所を設けてやってみればいいんじゃないか、と。最初はそんな風に考えていたんですけど、考えていくうちにどんどん膨らんで、ぼくがやってきたコーディネーショントレーニングとか、ビジョントレーニングなどの理論を取り入れたら、子どもたちのためにもなるということで」
それからは、若田接骨院や特別視機能研究所にも相談し、自分のやってきたことを復習し直したり、図書館に通ったり、インターネットで調べたり、猛勉強の日々だったという。
「今ではトレーニング方法とか、自分の中でしっかり確立されてますよ」
飯田さんは胸を張る。

 反響はすでに少なくない。まず、2月のスタートから、「想像以上に早く」拠点を構えることができたのは、飯田さんの行っていることに関心を持ち、賛同してくれるスポンサーが現われたからだった。子どもたちの親からは、「サッカーが上手になった」「学習塾の成績が上がった」「よく転んだり、すぐにつまずいたりしていたのに、最近少なくなってきた」といった声が、数多く寄せられているという。「キッズ塾」や「レディース倶楽部」の会員だった多くの人たちも、距離が遠くなったにも関わらず、引き続き、ボックスファイにも通っているのだそうだ。そのどれもがありがたく、嬉しいものであるに違いない。だが、飯田さんが何より喜んでいるのは、子どもたちが「次はいつ?」「後、何日?」と、「ボックスファイキッズ」を楽しみにしてくれていることだという。
「学習塾などのように、親にやらされているとか、嫌々、通うようにはなってほしくないですよね。子どもたちが自分から進んで、楽しく体を動かしてもらえたら。もちろん女性やサラリーマンの方とか、一般の方たちにも、ここで気軽にボクシングを楽しんでもらいたい。ボクシングをもっと身近に感じてもらいたいですね」
ボクシングの普及、底辺拡大、そして子どもの育成。飯田さんの中には、元世界チャンピオンとしての視点。二児の父親としての視点。そのふたつの真摯な視点が、間違いなくある。そこから生まれた新たな挑戦。それは、まだ始まったばかりである。
「まずはここを軌道に乗せることが先決なんですが、将来的にはここだけじゃなくて、この場所を拠点に、ぼくがどんどん外に出て行って、最初の構想にもあった『親子ボクシング教室』という形のイベントを全国各地でやってみたい。ボクシングを、この活動をもっといろいろな人たちにも、広めていきたいんです」



◆飯田覚士さんの公式HP :http://www.iida-ism.com/

ボックスファイの問い合わせ先、アクセスなどはこちらから。

Top