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「やっぱオレ、ライト・フライ(級)じゃね、あそこまでできないっすよ」
とりとめのない酒場の話題も尽きてきたころ、横山がふと真顔になって話を切り出したのを覚えている。
その「あそこ」とは、横山が日本王座から陥落するちょうど3週間前の世界戦を指していることは、ボクにもすぐにわかった。
'02年 2月23日。WBC世界ライト・フライ級タイトルマッチは東京・有明で行われ、チャンピオン崔堯三(韓国)の10回TKO勝利に終わっている。
チャレンジャーの山口真吾(渡嘉敷)は、テクニックとパワーの差を嫌というほど体感させられて血だるまとなりながら、レフェリーに試合を止められるそのときまでアタックをやめなかった。そのすさまじいファイティング・スピリットは人々のハートを少なからずつかみ、実力差や無謀な挑戦への非難を中和させたのだった。
実はその世界戦の2ヵ月ほど前、山口との無冠戦で怠惰なファイトを演じて敗れ、勝者に世界ランクを献上したのが横山啓介だった。
横山はさらに、3月16日の日本ライト・フライ級タイトルマッチでも判定負けを喫し、王座防衛に失敗。そしてその憂さばらしと激励を兼ねて4月の初旬、彼の友人のカメラマン、山口裕朗氏とボクとの3人で居酒屋のテーブルを囲んでいたのだった。
横山は無冠となったものの、ラスト・ファイトは山口の世界戦よりも白熱し、また彼のみせた根性は山口にも劣らないものだったとボクには感じられていた。それ以前の、彼の東京での2戦が腹立たしいまでに冷淡であったことの反動を差し引いたとしても。
だからボクは酒の席につくなり、酔ってしまわないうちにそのことを本人に告げたのだった。すると、目の上に生々しい傷跡が残る横山は「ホントのオレはあんなものじゃない」とでも言いたげに、苦笑いを浮かべるだけだった。
いつしか話題は、横山と山口氏が知り合った98年のメキシコ修行時代へと移っていた。そして二人の軽妙なやりとりによる回想の数々から、横山について知らないことがボクにはまだ多く、誕生日は一緒でも別の人間であることを認識しはじめていた。
たとえば、メキシコの宿に着いたばかりの横山は「ちょっとメシを買ってくる」と言い残したまま夜の大都市に消えてしまう。が、周囲の心配をよそに、あくる朝に地下鉄を乗りついで平然と帰ってくるような腹の据わった男だった。また、練習嫌いと思われていた彼が、メキシコでは1日のトレーニングを午前と午後に分けて有名な二つのジムへと通いつめ、同じA級ボクサーだった山口氏を脱帽させていたという。
その横山のメキシコ行きに関しては、本人も山口氏も知らないだろう情報がボクにはあった。
本人によれば、横山は所属ジム会長との確執からモチベーションが低下していたころに専門誌上で「メキシコ修行者歓迎」といった記事を目にとめ、半ば強引に日本を発ったという。だが、その裏にはこんな事実もあった。
「メキシコへ行きたいのですが」と横山が専門誌の編集部へ電話を入れるよりも先に、沼田ジムの沼田義明会長から編集部へこのような連絡があったのだ。
「うちの横山が『メキシコに行く』と言っている。いずれ本人から問い合わせの電話があるだろうから、その時はいろいろ教えてやってくれ。よろしく頼む」
つまり、ボクサー横山の育ての親でもある沼田会長は、自分の言うことに耳を傾けなくなった親不孝者の家出のサポートまでもしてあげていたのである。
そのことを横山に話して聞かせようかどうか、ボクはさんざん迷って結局は口にしなかった。
いまさらそれを持ち出さなくても、恩師のはかり知れない愛情を横山は十分に悟っているにちがいないと思われたからだ。
というのも、メキシコから帰郷して沼田ジムから別のジムへと籍を移した横山だったが、そこでも会長と折り合いが悪くなってきて、また古巣の沼田ジムで練習をしているという。要するに、彼はいずれ恩師の元へ正式に戻り再出発するものと、ボクは願い信じていたのである。
ところが、その稚拙な読みは見事に外れてしまう。あの横山のメキシコ渡航の裏事情、沼田会長の類まれな慈悲深さをボクが横山に話して聞かせたのは、憂さばらしと激励の宴からおよそ1ヵ月後のことだった。
(つづく)
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