私はいつまでも走った。気が付くと雪がやみ、真っ白に覆われた街の底を這うような風が吹きつけていた。やがて夜が白み始めた。私は朝ぼらけの街で厳冬の凍てついた風を受けながら、1時間前のことを思い浮かべ、そして自分自身が取った行為に打ちのめされていた。女の頬を打ったのは始めてだった。Cがもし、一度でも私の手を払いのけようとしたなら、私は打つのを止めていただろう。けれども彼女は無表情で私の打擲にじっと耐えていた。そのCに私が覚えたのは狂おしいほどの愛おしさだった。同時に微かな快感が私の体を走った。また打った。その私にさらに芽生えてきたのは殺意だった。「殺してやりたい!」。自分の感情が言葉になって突き上げてきた。私は慄然とした。こうしてやっと私は彼女を打つのを止めた。その自分自身に私は打ちのめされたのだった。
この俺は何者なのか。じっと耐えている女の頬を強かに叩き、快感を覚え殺意まで突き上げてきた自分は一体、何者なのか。
そう考えた時、私の大学時代の友人が2年前に言った言葉がやっと分かった気がした。Cとの経緯を掻い摘んで話した私に、ドストエフスキーの研究家が口にしたのは「お前は(罪と罰のヒロインである)ソーニャには決してなれない男だからな」というせりふだった。ソーニャは娼婦に身を落としながらも、慈愛と美しい心を失わない人間だった。−−彼が言いたかったのは、自分本意で、他人の苦しみなど決して斟酌しようとしない、私への糾弾だったのだ。空想の中で私は自分に問うた言葉を彼に向けた。「では俺は一体、何者なのだ」。冷ややかな笑いを浮かべて彼が答えた。「卑劣漢さ。お前は絶望の出来ない男だ。いや絶望の意味さえ知るまい。自分に対する省察を欠き、生きることの意味を求めようともせず、徒に時間を過ごしているお前に絶望の意味など知るはずがないからだ。そのお前こそ卑劣漢ではないか」。そう言うと空想の中のドストエフスキーの研究家は姿を消した。
あの雪の日から、私はCからの連絡を待った。彼女のリアクションが不安だった。そのCがどこに泊まっているかも私は知らなかった。それから2週間が過ぎた深夜に電話があった。「こんな時間に申し訳ありません。僕が分かりますか?」。聞き覚えのある声だった。−−Dだった。Dと認めた私に彼が言った。「実はお会いしたいんです」「いつ?」「出来ればすぐにでも」。Dと私は彼がタイトルを獲得した直後に取材のために何度か会っていた。それから4年ほどして私は、DがCを陵辱し彼女の人格をずたずたにしたことを知った。けれども、私は何故か彼に懐かしさを感じていた。
翌日の夜、私はかつて彼を取材したジムの近くの居酒屋で会った。
・・私がCの頬を打った翌日だった。CとD。そして私。その関係を思い浮かべた時、パズルの答えが突然解けた気がした。CがDに受けたという行為はあくまでCから聞いたものだった。私はDに会う必要を感じた。Dの所在はジムに聞けば分かるだろう。その矢先の電話だった。席に着くと唐突にDが切り出した。「丸山さんがCと会ったという日の翌日、彼女が私のアパートを尋ねてきたんです」
そんな気が私もしていた。「顔が腫れていただろう」。「ひどいものでした」。Dは小さく笑った。「で、僕にあなたを処罰してくれと・・」「処罰?」「ええ、自分をこんな目に遭わせたあなたに苦しみを与えてくれって・・」。「で、殴りにきたのか」。警戒心を露わにした私にDが言った。「いえ、その夜は泊まっていったのですが翌日になるとけろりとして”もういいわ”って言うんです」「で、何故君は僕と会いたいと思ったの?」。「彼女のことが未だに分からないからです。ただ、何故、あなたが彼女を叩いたのか。・丸山さんとはそんな深い間柄だったのか、と思うと何と言うか、奇妙な感情が突き上げてきて・・」「冗談じゃない。Cを叩いたのは事実だけど、手も握ったことさえない」。呆れながら答えた私にDが疑いの眼差しを向けた。「じゃあ、Cのお腹にいるのはあなたの子じゃあ、ないんですか」
(以下次号)
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