| ろくでなしの蝮 | ||
| 拳闘家 | 砂原洪一 |
| 吉野弘幸が四連敗目を喫した夜、18年間ずっとその在りようを眺め、書き続けてきたベテラン記者は 「緊張感がなくて・・・…」という敗者の弁に 「前回も、前々回も、何度もじゃないか!」と烈しく突っ込んだ。 18年間、リングに立ち続けることも奇蹟に近いが、その愛され方も尋常じゃない。吉野弘幸自身でホールのキャパ3分の1に近いチケットをさばくらしい。北側、東側がすべて埋まっちまう。そのファイトを観て、リングに“吉野弘幸が在る”のを我が眼で確認し、バカボンのパパよろしく 「これでいいのだ!」 と語りかけ常打ち小屋をあとにするのか。バカボンのパパの言葉は強靭な哲学だ。世界の名だたる哲学者の何人かが、究極的に 「これでいいのだ」 の言葉に行き着いてしまうらしい。古代中国の荘子も、鎌倉時代の道元も、西欧なら「神は死んだ」のニーチェもバカボンのパパの一派!? リング上で完璧にはいかないにしても、ありのままの吉野弘幸を見せてくれればいい。フックを放ってよろめいてバランスを崩したっていい、一回転したって構わない。黄金の左フック、空振りでさえカタルシスを味わわしてくれたのだ。目を瞑ればもんどりうって倒れていった佐藤仁徳(もう12年前か)が、クレイジータイガー・キム(あれも3年前か)が見えるとでもいうのか。 実は、私がはじめてボクシングを、後楽園ホールで観た試合のメインイベントが吉野弘幸vs金並英男だった。‘90年4月、ジムに入門して一ヶ月ちょい、ジャブと云えるかどうか、左腕を屈伸させながら鏡の前を行ったり来たりの毎日だった。その日は前座に出る先輩ボクサーのセコンドの手伝い。氷いっぱいにしたバケツに水の入ったビール瓶を突っ込んで持って歩けば、いっぱしのボクシング関係者になれた気でいた。なんだかいつまでもそのバケツを放したくなかったのを憶えている。吉野弘幸の身体はピッカピッカに輝いてた。奇妙に盛り上がった左肩が印象的だった。その試合がチャンピオンカーニバルであったのも、10連続KO中で6連続KO防衛中だったのも知らないで観ていたのではなかったか。ただ、きれいだと思った。 それから、10年。冒頭のボクシング記者の身内に不幸があり、その通夜の席でスターから頂いた名刺には「拳闘家 吉野弘幸」とあった。その夜から吉野弘幸は吉野さんになった。 「ケントウカ」 古めかしく聞こえるその響きは、今じゃ国税庁の納付書の区分に「職業拳闘家の報酬」とあるぐらいでほとんど語られない。 セピア色の写真と書物で想像力を駆使するしかない。 “拳闘家”という語の発する匂いになぜか惹かれる。伝説の拳闘家たちが登場する、絶叫歌人の福島泰樹さんのコンサート・ナンバー「荒野の歌」が私は大好きだ。伝説は無用で危険な空想をも含むからか。 「英雄ハ死ス ワッショ」ではじまり、ピストン堀口、槍の笹崎、ノックアウト・アーチスト中村金雄や青竜刀の植村竜郎なんて凄いセンスのニックネームをもつ拳闘家が立ち現れては消えていく。 デビュー以来47連勝を含めて公式戦176戦出場、拳聖と謳われたピストン堀口は打たれることにも怖じずに、わっしょ、わっしょと玉砕覚悟で前に出てくる日本的なタイプで、そのイメージは軍国主義の象徴にまでなりえた。時代は日米戦争真っ只中で、非常時日本の華となった。 ピストン堀口は晩節、無名のボクサーに惨敗することが目立ち 「名を惜しめ、引退しろ」 という声が起こっても、まったく耳をかさなかった。格下相手に血達磨になってTKOされても、なお、 「まだまだ、これからだ、四十の堀口、五十の堀口の境地を開拓する。血みどろの闘いの中から、必ずピストン流の今一歩奥の極意を探し出すのだ」 と語ったが、 「もう試合をさせるな」 という声が烈しくなり、拳闘協会も出場停止処分を考えざるを得なくなったとき、ついに力尽きて 「四十の堀口、五十の堀口がないことが、やっとわかりました」 と涙ながらに引退声明をしたという。吉野さんが「四十の吉野、五十の吉野を見よ」とは言い出さないだろうが、外っ面だけではわからない。 何年前だったか、誰との試合だったか、吉野戦がホールで跳ねた後、酒場で福島さんが 「吉野弘幸を取材していると、なんだか年上なんじゃねえかと思えてくる時があるよ。あと坂本博之。思わずアニキ!って呼びたくなっちまう時があるものなぁ」 と洩らすと冒頭のボクシングライターも 「実は私もなんですよ。二十も違うのに、なんなんでしょうねぇ」 二人とも本気だったと思う。そういうものか、とその頃は何の考えも及ばなかったが、私なりの解答を用意すれば、吉野弘幸が「拳闘家」だからである。まさに全身拳闘家なのである。だからこそ、面と向かって冒頭の檄をとばしたのではなかろうか。 水を入れたビール瓶を氷いっぱいのバケツにさしてホールを闊歩していた頃は、憧れたボクサーのスタイルになれると思っていた。吉野弘幸の左フック、高橋ナオトの右のカウンター、大橋秀行のボディブロー、赤城武幸のオーラ、古城賢一郎のガードなどが、よりどりみどり並んでいて1つ1つパーツを選んでプラモデルのように組み立てていけばいいぐらいに思ってたんだから、まるでヴァーチャルだ。 年月がたつにつれて遠近感を失くしっちまった眼ん玉のように、自分がいる位置が自分でわからなくなるぐらいに追い込まれていく。そして、戦績という代物とともに自分の軌跡はひとつしかないことが身に沁みてわかってくる。 敗けたり、勝ったりの冴えない日々。 ジムワークではシャンとしていた私のシャドーを見ながら、 「こいつはねぇ、いいモノ持ってんのに、試合じゃへっぴり腰になっちまうんだ」 とオヤジ(会長)がある人物に話していた。練習後に会長のところに挨拶に行くとオヤジと同郷のえもいわれぬ凄みのある先程の御仁が 「これでマムシでも食べてこいよ。気の強い奴が喰うとアゴがあがって拳闘になんなくなっちまうけど、お前ならちょうどいい具合に血が滾って肝が据わる」 と壱万円をくれた。ありがたく頂戴して、後日、後楽園での計量後、池袋の蝮屋にむかった。 場末のソープランド街の2mたらずの路地にぽつりとある蝮屋。白のワイシャツに黒チョッキの呼び込みの兄ちゃんをすり抜け、「強精強壮」、「まむし」と白地に墨で大書きされた旗がはためく門構えのドアを押した。すると白衣を着たマムシというよりはスッポンに似た顔つきの親父が素っ気なく一瞥をくれて、いらっしゃいと水を出してくれた。カウンターだけ5,6席といった店内に先客が一人。どう見ても八十過ぎの爺さんがスッポンと話し込んでいる。メニューはいたってシンプル。大・中・小、それしかない。小さいのを注文したが、スッポンは爺さんと話したまんまいっこうに動く気配がない。聞くでもなく聴こえてくる会話はこれから風呂屋に出陣する前の儀式といった風情だ。妻も承知の上、喫茶店で待っているらしい。 「じゃあ」 「ガンバって」 と爺さんにしてみりゃ軽い足取りなのかもしんないが、よろよろと立ち上がり杖をついて出て行った。 「二ヶ月に一回くる常連さんで隣に行ったよ。小でしたね」というと奥の木箱から50cmぐらいのマムシを取り出した。久々の蛇との対面。その面は気持ちのいいもんじゃない。 子供の頃、ガキ大将の雄ちゃんに連れられて近くの田んぼにおたまじゃくしを取りにいった。何十匹も捕って「オオタマジャクシハ蛙ノコ―、ナマズノ孫デハアリマセンー」なんて意気揚々と帰る道すがら、一匹の蛇が横切った。びっくりして私は皆のおたまじゃくしのはいったバケツをこぼしてしまった。日が暮れてきたせいもあったがそのまま、空のバケツを持って帰ってきた。もしかしたら、私は泣き出していたのかもしれない。子供心にショックだった。ちなみにその蛇はヤマカガシだった。マムシはあれほど俊敏な動きはしない。 手際よく三角の頭を落とし、小指の先ぐらいのまだピクピクしている心臓をブルーで半透明のおちょこのような容器に入れ、頭のないマムシのグネグネと動く胴体から生き血を滴らせる。眼の前の惨殺劇。生き血と生きたまま抉り取られた心臓のわずか10ccにも満たない液体。一気に呷った。生臭くもあったが、コリャ効くって感じで拳の先まで力が漲った。奴はみるみる皮を剥がされ、万力のような鉄の塊の中に入れられ骨ごとギリギリとミンチのようにされてしまった。今度はその肉塊を金槌で何度も何度もたたく。厚さ5oのハンバーグ状にされフライパンで焼かれる。萎びれたレタスと皿に盛られた。今度はゆっくりと味わってよく噛んで食した。思いの外、おいしかった。 サディスティックな血が逆流するような錯覚に陥った。それからしばらく勝ち続ける。いや、それは嘘だ。敗けなくはなった。どす黒い醜悪な血が滾りだす。 (以下次号) |