ドロップアウト・パンチ


『X 落日の曙光』

Text by Katsuya Ohkubo



《この対決だけは現場で観たい》
なけなしのカネを手に後楽園ホールへ通った時代。何もかもが新鮮で、ボクサーへ感情移入するのにいちいち理由をさがしたりはしなかった。
吉野弘幸と佐藤仁徳の日本ウェルター級タイトルマッチだったり、赤城武幸と渡辺雄二の日本ジュニア・ライト級タイトルマッチだったり。
もったいぶった演出や、こざかしいパフォーマンスとは無縁。つましくて短い花道にあっても、彼らは圧倒的な存在感を示しているのだった。

2002年3月16日、日本ライト・フライ級タイトルマッチ。
挑戦者の北野隼が待つリングへと向かう王者、横山啓介の姿が花道に見えてきたとき、ボクは胸の奥に忘れていた熱いものがよみがえるのを感じていた。思えば、身銭を切って開場時間から末席を確保し、メインイベントを待ったのも久々のことだった。

横山に、あの吉野や赤城にも匹敵する風格が備わっていたわけではない。やや内股でのっそりとした、そのいつもの歩みに親近感は覚えても威厳は感じない。が、わき目も振らず、四角い戦場へと一直線に進みゆく彼を見たのは初めてだった。白いガウンの間からは、黒地に金銀のチャンピオンベルトがのぞいている。照明やテレビカメラ、間近の敵にも微動だにしない態度。顔の表情までは見えないが、いつになく気合が乗っていることは遠方からでも読み取れた。

空元気か、開き直りか。それとも経験からくる自信なのか。少なくとも、この防衛戦への過程で横山がえたものは何もないはずだった。ほとんど走ってないし、スパーリングの量も質も満足には程遠い。何より、トレーニングの主眼が体重を落とすことにあったのだ。
ただし、横山にとって恐れるべきは、相手の北野より冬場の減量苦であったこともまた事実だった。というのも1年半前の夏、同階級の10回戦で北野に完勝していたからである。
アマチュアからプロに転じ、99年の新人王に輝いている北野の黒星はそれのみ。だが、19歳でプロの日本王者となった横山に比べると悲しいほど非力で、タイ人相手の前哨戦はガード主体の凡戦だった。

練習不足の王者とパワー不足の挑戦者は、しかし、弱みを相殺して余りある一進一退の熱戦を演じた。

オープニングの左ジャブを繰り出したのは横山。左ダブルから返しの右で先に切り込んだのも横山だった。早くも初回終盤のバッティングで目の上を切ったが、それも予期して序盤勝負に出たのだろう。
ともあれ、4ヵ月前の怠惰な敗北が幻であったかのような王者の雄々しさに、ボクはいっそう肩を入れないわけがなかった。多くは挑戦者のガードの上を叩いているものの、左フックのごつい破壊音が頼もしく胸に響いてくる。また、ボクにとっては初物の、彼の勇気や必死さ、左アッパーや右フックもまじえたコンビネーションや攻勢が、驚きに続いて納得をこの末席へと運んでくるのだった。
おそらく横山は、そのようにファイトして日本ミニマム級王者となり、昨夏は敵地・大阪で日本ライト・フライ級タイトルを奪取したのだ。
北野もまた1敗の手痛い記憶や王者の力攻めに怯まず、堅固なブロックとパンチの回転力をもって打ち合いに応じた。ジャブと右ストレートの精度が高く、これをまとめ打って王者をたじろがせるシーンもたびたびある。

前半戦はほぼラウンドごとに主導権が往来。早期決着とならず、両目の上から出血した横山だが手数が落ちることはなく、北野の非力はまるで気にならなかった。
迎えた6回、集中打を浴びて失速しかけた横山が、7回には挑戦者の顔面へ右ストレートを痛打し、右アッパーを下から突き上げてみせた。しかし、8回にレフトの相打ちでグラついてからは体で押し負け、明らかに打ち負けてしまう。ときおりのフックは序盤戦と変わらず頼もしいが、尻上りの挑戦者を阻むことはできなかった。

「最後まであきらめないで練習したので、大きな壁を越えられたんだと思います……」
3−0の判定勝ちを収めた新王者にリング上でマイクが向けられているころ、控え室の前王者に卑屈めいた言動はいっさいなかった。
「最後はもう一発狙いでした。でも不思議なことにその一発が当たっちゃうんですよね。どうせ負けんなら、倒されてスッキリ終わりたかったんだけど……」
それだけが予定外とでもいったように熱戦を振り返り、次戦からの階級アップを明言。そして微かに目元を緩めてボクにこう言った。
「また何か、変なこと書かないでくださいね」

どうしてボクにそんなマネができよう。彼は痛みや流血やガス欠の恐怖を厭わず、開始から勝負をかけて最後まで匙を投げなかったのだ。その気概とパワーはそのままに、減量苦から解かれた場合、日本3階級制覇も夢で終わらないのではないか。虎の子のタイトルは手放したものの、むしろこれからが本当の夜明けだと信じたい。
もはや、横山へ感情を移入するのにそれ以上の理由はいらなかった。が、彼の前途には、長くて孤独な茨の一本道しかないことをボクはまだ知らなかった。
     《つづく》


Top