ドロップアウト・パンチ


『W 死相〈下〉』

Text by Katsuya Ohkubo



まさか、横山は死んでしまわないだろうな。
本人を前には言えなかったが、不吉めいたものが胸に去来したのは本当だった。そこに同席していたほかの二人は、はたして同じニュアンスを感じたのだろうか。それだけは確認しておきたかった。
「横山クン、今度の試合で死ななきゃいいですね。なんか嫌な予感するんですよね」
横山と別れたあと、それとなく二人に同意を求めてみたものの、ボクサーを何十年と取材している先輩ライターは「そうだな」と言ったきり。もう一人のカメラマンも、「減量苦なら階級を上げればいいだけのことなんですよ」と、あまり取り合ってくれなかった。

02年3月7日。ボクらが面会した日本ライト・フライ級チャンピオン、横山啓介はたしかに衰弱していた。9日後に防衛戦を控えているとは思えぬ姿や言動だったが、それが彼の真実。ありのままを何も隠そうとしなかった。
毎日持ち運んでいるはずのバックが重そうで、歩くのも階段を上がるにも時間を要した。喫茶店の奥に腰を下ろすと大きく息を吐き、頼んだコーヒーに数えるほど口をつけた。試合前日までにまだ3キロ近く減量するのだという。
顔は蒼白く、アゴといい頬といい輪郭は骨そのもの。面と向かって話を聞いていると、まぶたの付近を走る大小の傷痕や、そのうち左目上の一本にうっすら滲んだ血の色が気になる。
そうしたあらゆるものが、彼の話に現実味や説得力をより与え、反論や意見の一切を拒んでいるのだった。
「ロードワーク? いやぁ、走れるわけないですよ。もうライト・フライ級じゃ、冬場は無理なんですよ。汗出ないから体重落ちないし、仕事も休めないし。スパーは沼田さんのところで、やらせてもらってたんですけどね。でも、この前やったときに前の傷口がちょっと開いちゃったんで、そっからはやってないです。もう顔に肉がない状態だから、軽く打たれてもすぐ切れちゃうんですよ……」
その「沼田さん」とは、元世界王者の沼田義明氏。横山にボクシングのイロハを教え、日本ミニマム級チャンピオンにまで育てたジムの会長である。しかし、横山はすでにその恩師の元を去り、別のジムへと移籍したはずだった。
選手の移籍にまつわる金銭や感情のトラブルは、この業界にはつきもの。だが、一度は完全に去ったジムで元所属選手がまた動いているというのは、あまり聞く話ではない。
こちらの疑問を察したのか、横山は外へつり上がった目を少し緩ませ、また口元を尖らせたりしながら、いま所属しているジムへの不満や怒りをぶちまけた。
「だってね、今回ジムが呼んでくれた(スパーリング)パートナーって、サウスポーなんですよ。だれが次、サウスポーとやるの?って話ですよ。前のフィリピン人との試合のときでもさ、何も知らされないでふつうに練習してリング上がったら、相手がいきなりサウスポーだし。こっちは冬場で体重落ちなくて苦労してんのに、窓開けるしさ、暖房もつけてくんないし……」

それはボクからすると、意外な展開だった。
横山に会いに行ったのは、彼をより知りたいと思い、彼のタイトルマッチでの勝利を願っていたからにほかならない。しかし、彼と1対1で対話するには、関門があるはずだった。
横山はその3ヵ月前の無冠戦でチキン・ファイトを演じ、格下に金星を献上した。そのふがいなさをボクは専門誌上で嘆き、疑問を呈したのである。むろん、伝えたかったのはそれだけではなく、特別な思いは行間に潜ませたつもりだった。が、横山のリアクションはだいたい想像できた。わがままで聞く耳をもたない頑固者といった彼に関する情報は耳にしていたし、試合後の控え室で見聞きした様子からも、それが何となく読み取れていたからだ。つまり、横山に殴られることも覚悟してボクは原稿を書き、また本人の前へ初めて参上したのだった。

約束の時間より2時間早くジムを訪ねると、横山はすでに練習を終えてシャワーを浴びていた。浴室から現れた彼は、見るからにやつれて精気を欠いている。頼りない手つきで着替えをしている間も、視線は一度もこちらに向けられなかった。が、その伏し目がちの奥の瞳は、怒りや拒絶のシグナルを発していた。そしてそれはおそらく、このボクに向けられたものだと思われた。
「じゃあ外、行きましょうか」
支度を済ませた彼はボクに一言だけ残し、先にジムの扉を開けて階段を下りていった。そしてのろのろと駅前の喫茶店へ向かいながら、「5時ぐらいって聞いてたんですけど早かったですね。オレ、練習見せたくなかったんで、今日はいつもより早くジムに来たんですよ」と、小さな声で話した。
ボクが名刺を差し出し、前回の試合の記事を専門誌に書いた者だとあらためて申し出たのは、店内で上着を脱いでからだった。
 すると横山は、表情ひとつ変えずに口を開いた。
「ああっ、あれね。読みましたよ。いつもは読んでないんですけど、知り合いから『なんか、すげえ叩かれてるぞ』みたいに言われて見せてもらったんですよ」
だからこうして会いに来たのだと、説明しているボクは知らずと熱くなっていたのかもしれない。横山は途中で軽く笑いながら、こう言った。
「後援会とか知り合いで怒ってる人もいたみたいですけど、オレは別にそういうの気にしないですよ。それにそんなめちゃくちゃに叩かれてるとか、オレは思わなかったし。なんか前向きというか、そんな感じを受けましたけどね……」
 
あとになって気付いたことであるが、ボクはその横山の返事によって決定的に、彼に惚れてしまったのだと思う。
口もきいてもらえないかもしれない。罵声を浴びせられるかもしれない。さらには殴られるかもしれない。そんな覚悟も決めての緊張状態から、一気に開放されたのだ。命拾いしたような安堵と嬉しさが、まずはあった。さらに、気の遠くなるような時間を投じた原稿の、それも行間に潜ませた思いが多少なりとも本人に伝わっていたことが輪をかけて嬉しかった。
惚れてしまえば、相手の欠点が見えなくなるのは必然。それどころか、ボクは彼の身の上を案じ、死んでしまうのではないかと危惧し始めていたのだから、おめでたい男である。ボクと横山の誕生日が同じであるという偶然を偶然と思わなくなり、オレたちはもう一心同体で運命共同体なのだという妄想に自分で酔いしれていた。
ボクサーの極度に枯れた戦前に立ち会うのは、何も初めてではなかった。ただその日、ボクは仕事ではなく個人的に横山に会いに行ったのであり、先走る思いにブレーキがきかない状態だったのだ。

約束の取材時刻に現れたのは、ベテラン・ライターの丸山氏。少し遅れてやってきたカメラマンの山口氏は元A級ボクサーで、横山の友人でもあった。その新たな顔ぶれを前に、横山はさっきまでボクに聞かせてくれた話を余さず繰り返した。
減量の苦しみ、まぶたの生傷、家庭や金や仕事の問題、ジムでの境遇や不満などを赤裸々と語る日本チャンプに対し、丸山氏は最後にこう忠告した。
「だけどね、オマエさん。階級上げるにしてもさ、次は勝たないと何も残らないし、意味ないんだぞ。そのことはオレは(新聞に)書くからな」
その場がお開きになり、横山と別れた三人は新宿へ繰り出して酒を酌み交わした。ボクはまだ夜中に仕事を残していたというのに、何とも言えぬ開放感と昂ぶりに負けて深く酔ってしまった。だから、ボク以外の二人には横山の死相が読み取れなかったことを確認して以後のことは、ほとんど何も覚えていない。
     《つづく》

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