Text By 船橋真二郎 |
ボクサーたちは、その中で、自己の存在の極限を公衆の眼前で証明する、という絶対的な経験を生きる。彼らは知ることになる。自分が、どれほどの体力と精神力を持っているか、どこまでやれるか、あるいは、どこまでしかやれないか――自分についてそれを知ることができる人間は、ごくわずかしかいない。(中略)ボクサーたちは、この闘いに、自分の存在のすべてを込める。そして、すべて――自分でも把握していない自分自身についての秘密も含めて、すべてが、白日のもとにさらされる。 (ジョイス・キャロル・オーツ著/北代美和子訳『オン・ボクシング』中央公論社刊より) 上田成人は、「ハートが弱い」と言われたボクサーだった。金田隆コーチ、国際ジムの先輩たち――元WBA世界スーパー・フライ級チャンピオンのセレス小林さん(現セレス・ボクシングスポーツジム会長)、元日本スーパー・フェザー級チャンピオンのキンジ天野、皆、異口同音に、「いいものは持っているのだが」と、歯がゆい思いを込めて、上田をこう評したものだった。そして、上田本人も反論することなく、苦笑いをしながらこう言った。「自分は気が小さいから」と。結果的に最後の試合となった、昨年7月24日の梅津宏治(新松戸高橋)との8回戦は、そんな「上田成人」がさらけ出されたような試合になってしまった。 第1ラウンド、上田はその初めての8回戦で、悪くない立ち上がりを見せた。いや、テンポのよいコンビネーションで、むしろ、序盤の主導権争いを制するべく、上々の滑り出しを見せていたはずだった。だが、ラウンド中盤、梅津のたった一発で、流れが一変してしまう。上田の打ち終わりに放たれた一発の右ストレート。それは、確かに上田の顔面を捉えはしたが、取り立てて強烈といえるような一発には見えなかった。だが、そのたった一発で、上田はロープ際にくぎ付けになってしまった。両のグローブで顔面をブロックし、下を向いたまま。あれだけテンポよく放たれていたコンビネーションが影を潜め、手が、まったくと言っていいほど、出なくなってしまった。 象徴的なシーンがあった。第2ラウンドの立ち上がり。前のラウンドとは異なり、自分からは仕掛けず、相手の出方をうかがう恰好になった上田に対し、梅津はおもむろにノーガードになり、顔を突き出して、挑発して見せたのだ。決して誉められた態度ではないが、梅津が精神的に完全に優位に立ったことを示す光景だった。第1ラウンド、緊張で固くなっていた梅津の表情が私の頭に蘇った。怖がっていたのは、むしろ梅津の方だった。梅津がそんなポーズを取って見せたことが、逆に、そのことを証明していた。だが、もう遅かった。不器用に、ただ左右を振るう梅津のボクシングと比較したとき、どちらのボクシングが上質かは明らかだった。だが上田は、リングの上で絶対に見せてはいけない「弱み」を、相手に見せてしまった。その時点で、勝負は見えたも同然だった。以降は、高校時代にラグビーをしていたというだけあって、発達した上体を持つ梅津のパワーに押され、展開は一方的になっていく。 第3ラウンドにダウンを奪われると、傍目にもダメージの色が明らかな上田が反撃に転じる。だが、それも長くは続かず、梅津の優位を――精神的な優位を覆すまでには至らない。第4ラウンド終盤にもロープに釘付けにされた状態から、思い切ったコンビネーションを放ち、一瞬、梅津を後退させる。だが、それが最後の輝きとなった。2分59秒、ついにレフェリーが両者の間に割って入り、上田を窮地から救い出した。 しばらく逡巡した後、私がようやく控え室に向かったのは、次の試合の第1ラウンドが終わった辺りだった。控え室に向かう足取りは重かった。だが、最後まで見届けなければならない、というある種の使命感が、私の背中を後押しした。控え室の前では、国際ジムのジムメートたちが、皆、一様に押し黙ったまま、立ち尽くしていた。重い沈黙の中、しばらく待っていると、試合後の検診を終え、上田が戻ってきた。ジムメートたちが彼を迎える。上田と目があった。 「すいませんでした……」 両の目に涙を溜め、しぼり出すような声で、彼は私にようやく一言、こう言った。 「お疲れ様でした……」 私には、それ以上、彼にかけるべき言葉が見つからなかった。 惨敗だった。だが、結果以上に、どこか悲愴感のようなものがリングの上に漂っていたように私には感じられた。リングは怖い。あの上では、その人間のすべてが、さらけ出されてしまう。試合直後は、そのことを再認識させられた思いだった。 だが、もうひとつ、私には気にかかることがあった。私には「現役の間は、書かないでほしい」と上田から頼まれていたことがあった。それは、眼疾に対する不安だった。2月6日に上田から届いた、緊急手術を伝えるメールの続きの中には、こんな一文があった。 ≪網膜剥離が怖くて辞めたのに、網膜剥離になって。ホンマ、皮肉なもんですね……≫ 初めて上田が目に異常を感じたのは、梅津戦からちょうど1年前の、彼が2年9か月ぶりに勝利を挙げた大石亨史(新日本木村)戦の後、しばらく経ってからだった。視野の中に黒い点のようなものがちらつく、いわゆる、飛蚊症の症状が現れたのである。ある日、それが視界いっぱいに拡がった。すぐに検査を受けたが、そのときは異常なし。裂孔も確認されず、飛蚊症は「一時的なもの」というのが診断結果だった。念のため、いくつかの眼科を受診したが結果は同じ。だが、疑いは晴れたものの、不安は消えなかった。一部の網膜が薄くなってきており、今後、網膜剥離を発症する可能性は少なくないという注意は、受けていたからである。ただ、複数の医者の「異常なし」の診断結果はあるのだから、眼の症状が障害になって、リングに上がれなくなるということはなかったはずである。だが、「どこから横槍が入るかわからないから」と、彼は私に内密にしておくように頼んでいたのだ。 眼に対する不安から、次の試合は大石戦から9か月後の、昨年4月5日に行われた。結果は、上田の5ラウンドTKO勝ち。だが、その試合中も、眼の不安がよぎったことを、上田は認めた。結局、梅津戦でもその状況は変わらなかったのだ。だが、リングに上がった以上、結果に対し、何の言い訳もできないことを、上田はもちろんわかっている。 「網膜剥離を心配しながら、眼をかばっているような、中途半端な状態では、ボクシングはやっていけない」 だから、彼は梅津戦を最後に、引退を決めたのだった。 上田と久しぶりに会ったのは、退院してからまだ3日しか経っていない、3月1日のことだった。退院したその足でジムに顔を出し、早速、コーチの仕事を再開したという彼は、その日もジムで練習生たちを指導していた。医者からは、まだ激しい運動を禁止されており、ミットを持つことすらできないし、本来なら安静にしていなければならない身である。だが、入院している間ずっと、とにかく早くジムに戻って、1月のプロテストで合格した大沢良樹をはじめとした自分の教え子たち、それに後輩たちの練習を見てやりたい、そう考えていたのだという。 明らかな異変が起こったのは、1月15日、彼の27回目の誕生日の朝だったという。梅津戦後、しばらく経ってから受診した眼科で、眼底に血が貯まっていると診断されたことは前に聞いていた。そのため、ずっと視野に影ができた状態であったということも。だが、その日、影が消えた。視界が明るくなった。ようやくよくなったか、とほっとしたのも束の間、すぐに異変に気がついた。何気なく見た窓の桟が、グニャリとゆがんで見えたのだ。医者から即入院で、緊急手術が必要と言われたのは、2月4日。すぐに眼科に出向かなかったのは、大沢のプロテストを12日後に控えており、この時期にジムは空けられないと考えたからだった。プロテスト当日、私は何も知らずに上田と会場で話していたが、その時点で、彼はすでに網膜剥離になっていたということになる。 入院していたこの3週間は、地獄のようだったと上田は語った。手術は二度に渡って行われたという。眼球に直接、麻酔注射を打ち、剥がれた網膜と眼球の間の水(液化した硝子体)を抜く。そして、剥がれた網膜と眼球をくっつけるため、眼球の外側から“バンド”を縫い付けて固定する。手術後には「割り箸で眼の中をかき回されたような」強烈な痛みが襲った。術後、約3日間は、ベッドの上で首の下に枕をあて、上を向いたままの状態で、トイレ以外は絶対に動かないようにと言われた。本もテレビももちろんダメ。網膜が剥がれた箇所が眼球の下だったため、下を向くとまた剥がれてしまうから、ということだった。発見が遅れてしまったのも、眼底に貯まった血が、外側から剥がれた網膜を圧迫していたために、剥離が起こらなかったか、発見しにくかったから、ということらしかった。肉体的にも精神的にも、苦痛の日々が続いた。 実家の湯豆腐屋を継ぐための、豆腐作りの修行のため、4月には東京を離れる予定になっていた。教え子たちや後輩たちに、今までに自分が経験したこと、考えてきたことを伝えたい。その時間が、刻一刻と奪われていく。焦りは募った。入院する前から、心の中では、東京を離れることを迷っていた。「地獄のようだった」という日々。だが上田は、その日々の中で、今後も東京に残り、コーチとしてボクシングに関わっていくことを決意することになる。 「他に何もすることがないので、入院している間は、とにかくいろいろなことを考えました。これからのこととか、今までのこととか。それで、思ったのは、今の自分がいるのは、周りの人たちの支えがあったからっていうこと。そのことを本当に実感したんです」 入院中、上田の病室に、見舞い客が訪れない日はなかったという。後援者、金田隆コーチ、国際ジムのジムメート、後輩、アマチュア時代からの友人など……。途絶えることなく病室を訪れた彼らの激励が、焦り、苛立っていた上田の心を、落ち着かせていったに違いない。たとえば、「タイプは違うけど、共通したよさを持つ兄貴のような存在」と上田が慕うキンジ天野とトラッシュ中沼。この両元日本チャンピオンも、上田の病室を幾度も訪れている。 天野は、網膜剥離の手術にかかる莫大な費用を少しでも援助するためにと、自らカンパを募り、上田に渡してくれたという。そういえば、梅津戦の直後、ロープをくぐった上田を誰よりも先に迎え、ダメージで足元の覚束ない上田を脇で支えながら、いっしょに階段を下りたのが天野だった。中沼は、「美味しいイチゴがあったから」など、さり気なく、ふらっと病室を訪ねて来るのが常だったという。病室ではいつものように明るく振舞い、落ち込む上田の気持ちを「元気づけてくれた」。誰もが押し黙り、重苦しい空気が漂っていた梅津戦後の控え室前で、ひとり努めて明るく振舞っていたのが中沼だった。その一見すると場違いとも思われた振舞いが、中沼なりの気遣いだったことに気づかされたのは、上田が検診から戻ってきたとき。中沼は真っ先に、飛びつくようにして上田を迎え、両肩を抱き寄せると、肉体的にも精神的にも傷ついた上田をいたわるように、耳元で語りかけていた。 「自分が行ってたら、勝ってたっていうわけではなかったけど……。まっちゃんが負けて悔しかったし、行けなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」 2月8日に川端賢樹(姫路木下)とのタイトルマッチを控えていたプロスパー松浦は、試合会場の兵庫県高砂市についてきてほしい、と上田に頼んでいた。だが、上田の緊急入院で不可能になった。その松浦も、タイトルマッチに敗れた翌日に上田の病室を訪ねてきたという。 病室を訪れる人たちの目的は激励のためだけというわけではなかった。ボクシングのことや日々の悩みなどを相談に来る後輩たち、教え子たちの姿もあった。自分を支えてくれる人たち、自分を必要としてくれている人たち、それぞれに対する感謝の思いが、上田の中で大きく膨らんでいった。 二度目の手術は、当初は局所麻酔で行われる予定だった。全身麻酔の場合とは違い、眼球を刺す注射針が見える。恐怖心から、医者には全身麻酔にしてほしいと頼んだが、手術日が延びてしまうという。それだけ、退院日が先になる。一方で、局所麻酔なら、すぐにでもできるという。早くジムに戻りたいと焦っていた上田は、悩んだ。その決断を後押ししてくれたのは、中沼を介して知り合ったという、JBスポーツジムの山田武士チーフトレーナーの言葉だった。 “金脈を失うことは小さい。だが、人脈を失うことは大きい……” もともとは、1月3日の世界戦に敗れた後の、中沼に向けてのメッセージの一部だったそうなのだが、この言葉が、そのときの上田の心に深く響いたという。後輩たちや教え子のためにも「これ以上はジムを空けたくない」。自分が恐怖心を克服しさえすれば、早くジムに戻ることができる。上田の決心は固まった。医者の好意によって、実際には日程を変えずに全身麻酔による手術になったのだが……。 その言葉を含め、「山さんには、本当に感謝しています」と上田は言う。入院中、山田トレーナーからは、何度も長文で激励のメールを受け取っていた。上田は自分の置かれた状況、そして、自分が教える側に回る思いを、メールで山田トレーナーに訴えた。その時点で、上田の心はすでに決まっていたのだ。 「現役時代には見えなかったことが、コーチという立場になって、見えてきたんです。それは、どんな選手でも、ひとりひとりにストーリーがあるっていうことです。みんな、いろんな事情や背景を背負って、戦っている。そういうことが、自分のことで精一杯だった現役時代には、ちゃんと見えてなかったんです。入院中、見舞いに来てくれた後輩たちから、いろんな悩みを相談されたこともありました。それぞれの人生、どんな目標であっても尊重すべきやと思うから、悔いなくボクシングができるように、ジムの仲間や後輩たちをサポートしてやりたいです。人生、生まれてくることと死ぬこと以外に絶対はないんやし、みんないろんな可能性を持っていると思うんで、それを引き出してやりたいですね。結局、13歳から26歳まで、人生の半分ボクシングをやってきて、ぼくに教えてもらいたいと言ってくれた教え子はもちろんですけど、今まで自分を支えてくれた人たちに、恩返しできるのは、やっぱりぼくにはボクシングしかないんです」 すでに豆腐作りの修行の話を進めていた父親には、 「自分にとって、ボクシングは生きがいだから」 と説得した。ボクシングを始めようとしたとき、他の家族や親戚中が反対する中で、ひとり理解してくれた父親は、今回も息子の生き方を理解してくれた。 「仕事と生きがいは、別でもいい。ボクシングのコーチだけでは生活していけないだろうから、東京で豆腐の修行をすればいい」 と。この時点では、あくまで上田個人の希望に過ぎなかったが、後に国際ジム出身で、現在レパード玉熊ジムのトレーナーである有吉将之さんを介して話は順調に進み、日本ウェルター級チャンピオンで、老舗豆腐店の4代目でもある小林秀一の店で修行を行うことになったという。 上田は確かに、「ハートが弱い」と言われたボクサーだった。だが、私には忘れられない1戦がある。前出の大石戦である。この試合がまだ決まる前のインタビューで、上田は私に、 「今、負けたまま(ボクシングを)やめたら、何に対しても自信を持ってやれないと思う」 と、勝ち切れなかった時期の苦しい胸の内を吐露していた。そして、極端に言えば反則勝ちでも何でも、とにかく勝たないことには、自分に対する自信を取り戻せないのだと続けた。その日、リングの上では、その上田の勝利への執念が見事に表現されていた。終始、気持ちのこもった試合を展開し、結果は判定勝ち。それは、「ハートが弱い」と言われたボクサーの姿ではなかった。引き換えに払った代償は決して小さくはなかった。だがこの1戦が、この勝利があったからこそ、上田は今、自信を持って、次なる道を進めているのかもしれない。自分がどこまでやれるのか、あるいはどこまでしかやれないのか。ジョイス・キャロル・オーツが言うように、「それを知ることができる人間は、ごくわずかしかいない」のだ。そして、もうひとつ付け加えるなら、「それを知ろうとする人間」も、ごくわずかにしか、過ぎないであろう。 高校3年のときには、アマチュアで国体の頂点に立った。プロでは、目に見える形での結果は残せなかったかもしれないが、勝つことの難しさも喜びも、身をもって経験している。最後には、ボクサーの職業病とも言われる網膜剥離の辛さ、文字通りの痛みも経験した。これら様々な経験はすべて、様々なストーリーを背負って戦うボクサーたちの指導に、きっと活かされるに違いない。 「自分が経験してきたこと、自分なりに考えてきたボクシング理論はあります。でも、それを受け止めてくれる練習生は十人十色。教えるのはホンマに難しいと感じます。でも、それだけに楽しさもあるんです。選手といっしょに考えて、自分も成長したいし、ボクシングだけじゃなくて、普段の生活のことでも相談に乗ってあげられるような、兄貴のような存在でいたいですね。ボクサーとコーチじゃなくて、人間と人間。そして、ジムの仲間や自分の教える選手たちが、ぼくよりも上に、できるだけ見晴らしのええとこに、立ってほしいと思っています」 |
