ドロップアウト・パンチ


『W 死相〈上〉』

Text by Katsuya Ohkubo





『身軽で優秀だったパソコンが、わずか5年でウィルスの急襲を防げなくなり、新しいワクチンを容れる体力を持たなくなってしまった。これを操る私の思考メモリも最近はパンパンで、時間のわりに要領をえていない。

そのため、必要ないことにはアクセスしないようにしている。合点のいかないことに直面したら、情報を検索して舞台裏へ迫るか、記憶を呼び出してきて解決をはかる。それでもダメなら、ゴミ箱へ入れて忘れてしまう。

さて、2001年12月の夜。私はしばらくぶりにゴミ箱行きの難問にぶつかった。ある男の態度に腹が立ち、後から本人に事情を聞いてみると痛いほど共鳴できるというのに、まだどこかにシコリが感じられた。

しかし、いつものようには、それを忘れることができなかった。この件になるとゴミ箱が蓋をしてしまう。そこで再度の検索を試みていて、ようやくそれらの謎が解けた。実はその彼も私も1月19日生まれ。この偶然を発見したとき、私は彼の中に自分の姿を見てしまっていたことに気がついたのだ。

 その彼というのは日本ライト・フライ級チャンピオン、横山啓介である。解せなかったのは、新鋭の山口慎吾とのノンタイトル戦での戦いぶりである。格は一枚も二枚も上。パンチ力もキャリアも、ずっと優っている。なのに、ファイトしているのは山口だけで、彼はいつになっても余裕の構えを見せるだけだった。彼が手数の少ないボクサーであることは承知していたが、まったく勝負しないボクサーがチャンピオンになれるはずがない。

「勝者、山口」のコールが場内に響いたとき、疑念を抱いたのは、おそらく彼一人だけだっただろう。赤コーナーで肩を落として佇む彼を、振り返って見る観客はいなかった。

「言い訳を言えばいいの?」。彼は控え室に戻ると、冬場の減量の厳しさ、顔の生傷と腕の負傷によるスパー不足、今回のマッチメイクの背後にある生活難などを淡々と喋った。

だが、「山口の世界挑戦が決定」とのニュースが飛び込むと一瞬、言葉を失い、唇を小刻みに震わせた。「嘘でしょ、そんなの。だって、オレが勝っても世界戦なんてなかったよ……いい踏み台になっちゃったなぁ」。

3月にタイトル防衛戦を迎える横山に、伝えておきたい言葉がある。あの日の敵軍の将、渡嘉敷勝男会長は最後にこう言った。

「チャンスがあるから頑張るんじゃない。頑張るからチャンスがあるんだよ」 』

《以上、ボクシング・マガジン2002年2月号より》


横山に会ってみたい。いや、会わなければいけない。

ボクは上の原稿を書き終えたときから、そう思っていた。彼の試合は過去にも取材しており、試合後に話も聞いている。だが、それは報道陣の一団に混じってのことで、彼と1対1で話をしたこともなく、名刺さえ渡していなかった。

つまり、横山としてみれば、どこの誰ともわからぬ記者に自分を非難されたことになる。あるいは、もし面識があったにしても、世に出る誌面を通じて自分がまるでカッコのつかない男として描かれているのだから、いい気がするはずもない。

ボクとしてみれば、あくまで現場で見聞きした事実を題材とし、そこから感じたものをストレートに書いたまでのこと。もちろん、行間に込めた思いは特別なものだった。前号で触れたような経緯もあり、自分にも通じる横山への励ましのメッセージとしたつもりだ。そして何より、これを契機に彼の続きを追いたいと強く願っていた。

しかし、これは書き手のテクニックや知名度などにもよるのだろうが、ヘタに情念を込めた原稿にかぎって、その意図や逡巡などまるで理解されなかったり、捻じ曲がって解釈されたりして、やるせなくなることが往々にしてある。

だからボクは、横山にはあとで殴られるかもしれないし、ジムの会長あたりからは猛烈なクレームがくるかもしれないということも覚悟の上で、書き上げた原稿を編集部へ送ったのだった。


 受話器をとり、横山の所属するジムへ連絡を入れたのは3月の初め。横山の日本タイトル防衛戦の2週間ほど前のことだった。

「初めまして。ライターの大久保と申します。先日のマガジンで横山クンについて書かせてもらった者です」

 すると、会長とおぼしき人物が電話口の向こうでこう言った。

「ああ、あれね。あれぐらい厳しく書いてもらったほうがいいんだよ。アイツは人の言うこと聞かねえから」

「それで、どこに書くわけでもないんですけど、今度のタイトルマッチの前に横山クンに話を聞きたいと思ってるんですが……」

「ああ、丸山さんが今度、連れてくるとか言ってたな。聞いてるよ」

拍子抜けするほどあっさりと、取材の許可は下りた。それはベテラン・ライター、丸山幸一氏のおかげかもしれなかった。

その何日か前の酒の席でのこと。横山の話題となり、近々会いに行こうと思っているが例の原稿を書いただけに断られるかもしれないといった、弱音を吐いたボクの背中を、丸山氏はこう言って押してくれたのだった。

「そんなの気にすることないよ。間違ったこと書いてないんだから。オレもちょうど来週、横山の取材に行くからさ。山ちゃん(フォト戦士、山口裕朗氏)も行きたいって言ってたし、一緒に行くか?ジムにはオレから電話入れておいてやるから」


約束の日。ボクが中央線の駅を降りたのは午後の3時半すぎだった。

指定された取材の時刻までは2時間近くあったが、まずは一人でジムへ行こうとボクは決めていた。書くだけ書いておいて、いざ当事者を前にしたときに誰か(丸山氏)の背中に隠れるのは、いかにも情けない。むろん、最初からそんなつもりはボクにも丸山氏にもなかったが、結果的にそうなる恐れがあった。また、絶対に落とせない試合を10日後に控えている横山の練習風景から、調子や意気込みを読み取りたいとの思いもあり、抜け駆けさせてもらったのだった。


30分ほど道に迷ってジャンバーの中にすっかり汗をかき、たどり着いたビルの階段を二階のジムへと上がった。

 扉を開けて挨拶をすると、すぐそこにいたトレーナーらしき人物が振り返り、

「ああ、横山ね。いま、シャワー浴びてますから」

 と言ってフロアの奥へ通してくれた。

 そして会長とトレーナーと名刺交換を済ませると、しばらく会長の昔話に花が咲く。例の原稿の件には興味も何もないらしかった。

しかし、横山はちょっと違っていた。

どこからか現れた彼は、こちらには一瞥もくれず、気だるそうにノロノロと着替えをしている。見るからに覇気のないその横顔は、死相を表わしているかのようだ。が、伏し目がちの奥の眼には、はっきりと怒りの色が浮かんでいる。

やはり、腹を立てているのだろう……。よく喋る会長の傍らで、ボクはシャツの背中に再び汗を感じつつ、一人で先にジムへ来たことをわずかに後悔し始めていた。

                                           《つづく》

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