そろそろ今日の第一試合が始まる、と、リングを見上げると、コーナーでシャドーを繰り返すボクサーの顔に目が留まった。見覚えがある顔だった。
(そうだ、あの時、しゃくりあげて泣いてた選手だ)
年明け早々、大阪市中央体育館で行われたダブル世界タイトルマッチ。メインイベントが終わり、選手のコメントをとるためにリングサイドから花道を逆行して控え室へ行こうとした時、グローブをはめ、セコンドに付き添われてリングに向かう選手とすれちがった。
(予備カードの選手だな……)
世界戦の興行ではテレビ放送の関係上、試合進行時間調節のために“予備カード”といわれるものが用意されている。たとえば、前座試合がKO、KOで決着がついて、メイン開始予定時刻までに時間があまったりすると、差し込まれる。逆に、判定勝負ばかりでスケジュールどおりにイベントが進行すれば、消滅してしまうこともあるし、メインイベントが終わった後、観客のほとんどが背を向けるリングで行われることもある。
この選手はこれから、がらんとした空気の中で戦うんだと思った。
だが間もなく、彼はとぼとぼ戻ってきたのだ。
泣いて泣いて、ひっくひっくとしゃくりあげながら、グローブで顔をぬぐっていた。どうにも涙を止められない様子だった。どこにも戦った形跡がなかった。そういえば、ゴングの音も聞いたおぼえがない。アリーナの方へもどってみるとコミッション役員の席はからっぽで、無表情な会場スタッフらが片付けにとりかかっていた。
彼はリングに上がれなかったのだ。
それから1ヵ月以上が経った2月15日、トップバッターとして明るいライトの下にいたのは、あの時のボクサーだった。プログラムに記された名前は、大洞達馬。1勝1分で迎えた3戦目、ということだった。
試合が始まると、赤コーナーから出た相手、ファイター型の福光喬に対し、長身の大洞はアウトボクシングを展開する。左右のアッパー、右カウンターで冷静に迎え撃ち、次々とポイントをゲット。このハイペース、集中力はどこまで続くだろうと思って見ていたが、あっという間に最終回に入った。ボディを猛攻されて苦境に陥った。必死で挽回を図る福光に、色白で痩身の大洞は圧されていた。かりにこの回を失っても判定なら勝てるに違いない。が、ラウンド中盤から彼は盛り返した。右アッパーをボディへ、顔面へ。そんな中、4回終了のゴングが鳴った。39対37が二人、39対38の3−0で、大洞は2勝目を挙げた。
控え室に彼をたずね、あの日のことを聞いてみた。
あぁ、と、彼は少し恥ずかしそうに笑いながら、話し出した。
前座が続いてる間、やれるかやれないか、二転三転してて、でも結局やれないと言われました。
グローブはずしました。けど、あきらめきれなくて……。メインが終わって、グローブつけて出て行ったら、もしかしたらやらせてもらえるんじゃないか、って思って、相手側とも話して、それで出てったんですよ。
だけどやっぱりだめだった。
そしたら、自然に涙が出ちゃったんです。
なんていったらいいかわからないけど、なんか、負けるより悔しくて。
いっこ試合が決まったら、そのためだけに体も気持ちもつくってくじゃないですか。
準備してましたから。
しばらくぼーっとして、何をする気も起きませんでした。3日後には、今日のこの試合を決めてくれて、はい、相手も同じで。だから、すぐに気持ちを切り替えることができて、よかったです。
“予備カード”はあくまで“予備カード”。
でも選手にとっては、“予備”がつく試合なんて、ないのだ。
3月6日の三大世界タイトルマッチ。入り口で配られた「本日のプログラム」には、“予備カード”が3つ、すこし小さい文字で記載されていた。
前座は判定、判定、で進んだ。三つの世界戦もすべてフルラウンドを要し、終わったのは夜9時をまわっていた。
が、リングアナウンサーがまだイベントが終わっていないことを告げた。そして、
カーン、カーン、カーン
試合開始のゴングが聞こえてきた。
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