| 『ボクシングファン心理』 | ||
| 寺山修司「スポーツ版裏町人生」 | Text By 中津川 一路 |

サンドバックに浮かんで消える憎いあんちくしょうの・・・・ みなさん、ご存知のこの歌。この出だしのなんという素晴らしいセンス!とみなさん、思いませんか?これを作詞したのが演劇、映画、著述、作詞と全ての分野においてトップクラスの才能を発揮した寺山修司さんです。彼が世を去って21年経ちました。 寺山修司氏はボクシングと競馬の記者をしていたことがある、と著作のいくつかの中でも書いている。自身も痩身のフライ級でマッチ棒と呼ばれた少年ボクサーだった、ということが「誰か故郷を思わざる」の中にも記述がある。 寺山修司氏が語る自分史の多くはフィクションをちりばめているので、何が事実なのか微妙なところだが、ボクシングに深い愛着を持っていたのは間違いない。また、寺山氏が記者席に座っていた時代はボクシングに最もフィットした時代だったように思う。それは今でも日本のコアなボクシングファンにも通じ、ボクシング好きには、その時代の洗礼を受けていた人が多い気がする。 今となっては想像するだけだが、60年代というのはマイナスエリアのプラスエネルギーが充満していた時代だったらしい。寺山氏もあとがきで「あしたのジョーよりも力石徹に思いいれしていた」と書いている。 本中に登場するボクサーを列挙しただけで、その色合いの傾向は明らかだ。「友よいずこ」聾唖のボクサー赤城繁雄(だと思っていた留置所で会った男)、「群れを離れた狼」今も冤罪裁判を闘う袴田巌、「大男のたそがれ」ヘビー級日本チャンピオン片山昇、「負け犬の栄光」松谷好美、「生まれた時代が悪いのか」天才サウスポー・青木勝利。(敬称略) しかし、時代性を抜きにして、ボクシングは好きになればなるほど、無名の、或いは敗者への思い入れが強くなっていくのは今も変わらないと思う。殆どのボクシングに関する書物はボクシングの側面を捉えたものが殆どだし、どちらかといえばストイックなものへの憧憬を基本としているように思う。この21世紀だから尚更なのかもしれないけれど。 「スポーツ版裏町人生」で取り上げているスポーツはボクシングの他に競輪や競馬、野球、相撲、闘犬などだが、その焦点は登場ボクサーの描き方同様、一定している。 個人的には明るいスポーツとしてのボクシングを強く望んでいる反面、どうしても、一般的にありがちな視点からのボクシングに惹かれてしまう。 ボクシングに魅入られる人の多くは、そのボクサーのテクニックやフィジカルではなく、背負っている人生に魅力を感じているのだから、陰影に富んだスポーツとしての一面からは、抜け出せないのは仕方ないのかもしれない。 どんなに明るく輝くボクサーでも、ジムで数え切れないくらいの時間、黙々バックを叩き、習慣になるくらい人のいない朝を走る。それは蓄積された常識や人間らしさを1枚1枚剥いでゆく作業でもある。その過程を経ることで、本能の一部が剥き出しにされ、ボクサーは殺意に近いものを、知らず知らずに内蔵していくことになる。リング上でスポットライトを浴びた肉体の影に見え隠れする「それ」らは、コアなボクシングファンの内面を刺激し続けるのだと思う。 「スポーツ版裏町人生」を今読んで、その色が褪せているようには思えないということは、「それ」はいつになっても変わらないってことだろう。 そう言えば、最近はタモリも寺山さんのモノマネしないなあ。 |