Text By 船橋真二郎 Photo by 丸山 耕 |

| 「一生懸命がんばってきたことが形になった、というか。新人王は目標としてあったんじゃなくて、一生懸命がんばった後からついてきたっていう感じですね。1年間、ひとつひとつ勝ち抜いて、勝ち残れたことがいちばん嬉しかったんです」 と2003年度スーパー・バンタム級全日本新人王は言う。同時に、開設3年3か月で初めての新人王を、川島ジムにもたらすことにもなった。入門したのは今から約3年前。ジムとはその歩みを、ほぼ共にしてきたことになる。 「今は、また次へのスタートラインに立ったという感じ。ぼくの最初の目標であり、スタートラインだったのはプロになることでした。次がデビュー戦で、そして新人王戦。今までにも、スタートラインはいくつもあって、ひとつひとつステップを上がってきたっていう感じなんです」 「自分にできること、自分がやりたいことは何だろう?」 将来について考えたのは高校2年の夏だった。漫画『スラムダンク』の影響で中学、高校とバスケットボール部に所属。が、その夏、中学の頃からずっと一緒だった友人たちが、「音楽の道を目指すから」と退部していった。ひとり取り残されてしまった少年は、焦燥感を覚える。身近な友人たちが、自分のやりたいことを見つけ、進んでいく。 「自分が本当にやりたいことをやろう」 刺激を受けた少年が、出した答えはボクシングだった。友人たちの後を追うように、その夏、彼もバスケットボールをやめた。 1980年8月11日、塩谷悠は岐阜県岐阜市に生まれた。父親がサラリーマンの、男ばかり3人兄弟の末っ子。ごくありふれた家庭に育った塩谷の、ボクシングに惹かれた最初のきっかけは、ご多分に漏れず、テレビだった。小学6年から中学1年の頃に見た、元WBC世界フライ級チャンピオン、勇利・アルバチャコフの世界タイトルマッチ。ボクシングをやりたいという思いが芽生え始めたのは、この頃だったという。塩谷少年はある日、おもちゃの大きなグローブを買う。そして、水で浸したティッシュペーパーをマウスピース代わりに、空手をやっていた2つ年上の兄と、"顔面打撃禁止"のボクシングを繰り返していた。少年はまだそれ以外に、思いを表現する方法を知らなかった。塩谷とボクシングの橋渡しになったのは、ある同級生の存在だった。彼の名を小縣新(おがた しん)という。現在、OPBF東洋太平洋スーパー・フライ級1位にランクされる、無敗のホープその人である。小縣とは幼稚園の途中から小学校、中学校とずっと一緒だったという。だが、おとなしい塩谷とは性格が対照的。「昔から強気で、やんちゃな奴だった」という小縣との親密な関わりはないまま、それぞれ別々の高校に進んでいた。その小縣が「ボクシングをやっているらしい」というのを伝え聞いていた塩谷は高2の夏、当時、アマチュアのリングに上がっていた彼を、名古屋の松田ジムに訪ねた。 「やりたいんなら、やってみれば」 元同級生の反応は簡潔だったという。 両親は最初から、三男がボクシングを始めたことにいい顔はしなかった。プロボクサーを目指すなどは、言うまでもない。「大学に進学してほしい」。それが親の願いだった。結局、このときは親の"圧力"に抗し切れず、高3の5月頃、塩谷は松田ジムをやめてしまう。 翌春、親の願い通り、大学に進学した塩谷だったが、大学生活に魅力を感じることはなかった。体が自然とうずき始めた。入学から半年後、今度は地元の岐阜ヨコゼキジムに通い始める。だが、何かが違う。自分の思い描いたイメージとはどこか違う。それは、松田ジム時代にも感じていたことだったという。一方で大学には「意味がない」と思うほどに嫌気がさしてきていた。もやもやと不完全燃焼な日々が続く。転機は大学2年目の夏休みに訪れた。 塩谷は東京に、ある友人たちを訪ねて行く。音楽の道を志し、高校卒業後、東京へ旅立って行った友人たち。夢を追いかけ、ひとり暮らしでがんばっている彼らの姿は、塩谷の目に眩しく映った。 「お前、そんなんでいいのか。ボクシングはやらんのか」 友人たちからは口々に言われた。そして、ちょうどこの頃、新聞で川島ジムのオープンを知る。 「これしかない」 塩谷は決意を新たにした。 「大学をやめて、東京でプロボクサーを目指す」 当然、両親の猛反対に遭った。 「そんなことで食べて行けるのか。大学を卒業して、普通の仕事につけ」 「せめて、大学を卒業してからにしろ」 だが、今度は塩谷も引き下がらなかった。ボクシング人生は短い。今しかない、と。 結局、今度は親が折れた。が、大学はいつでも戻れるようにと、退学ではなく休学という形になっていた。「遅くとも2、3年で帰って来るだろう」。親はそう踏んでいた節があった。「全部、自分で準備するから」。そう親に宣言していた塩谷だったが、結局、「少しだけお金を援助してもらった」。 翌2001年2月、上京した塩谷は川島ジムの門を叩いた。その日のことを、塩谷は今でも大切に心の中に留めている。「ジムに行った最初の日に会長室に呼ばれて、川島(郭志)会長が言ってくれたんです。『ひとりで岐阜から出てきたんだから、がんばれよ』って。すごく感動して、がんばろうって思いました」 松田ジムでも岐阜ヨコゼキジムでも、「自分のことをなかなか見てくれなかった」という意識が、塩谷の中にはあったという。それは、例えば塩谷のことを覚えていた岐阜ヨコゼキジムの横関孝志会長が、全日本新人王決勝前の控室に激励に訪れているくらいだから、思い違いだったのかもしれない。だが、少なくとも当時の塩谷自身はそう感じていた。 「新しいジムなら、みんなスタートが一緒だから、下の方でも見てくれるんじゃないか」 川島ジムオープンの記事を見たとき、塩谷はまず、そう考えたのだという。 とにかく川島会長の言葉が、塩谷にとっては始まりになった。夢を抱いた高2の夏から2年半。塩谷はようやく真っ直ぐに走り始めた。 8か月後、プロテストに合格。そして、上京した日から数えて、ちょうど1年後になる2002年2月26日、2ラウンドKO勝ちでプロデビューを飾った。「最初の頃は、プロになってからもそうだったんですけど、まだ甘いところがありました。例えば、少し体調が悪いだけで練習を休んでしまったり。そんなところがあったんです」 塩谷は自らこう振り返る。「もっとプロの自覚を持て」と栗田康(くりた こう)トレーナーに叱られたこともあったのだという。 「性格の優しい子。そういう面が試合で出ないかという不安は、少しだけありますね」 と川島会長は言う。 こんなことがあったという。川島会長が塩谷とジムのもうひとりの選手を計量に連れて行ったときのこと。塩谷はバナナを持参してきていた。だが、もうひとりは何も用意していない。塩谷は「どうですか?」と言って、彼に自分のバナナを分け与えた。 「おれだったら自分で食べちゃうけどね(笑)。自分さえ良ければいいっていう。もちろん、日常生活の中では大切なことなんだけど、リングの中では仇になりかねない面があるんでね。やっぱり精神的に強くないと、あのリングの中では勝てないっていうのが、自分が実戦の中で、ひとつわかったことですから」 現役時代、指折りのテクニシャンとして鳴らした川島会長は、まず朝のロードワークの重要性を選手たちに説く。何より自分の中の弱さに打ち克ち、精神力を鍛えるためだという。 「精神力っていうのは、練習の中で作り上げていけばいい。練習を、これでもかっていう感じでやって、試合で勝つ。それで精神力は鍛えられていく」 そして、だから塩谷については、それほど心配していないと川島会長は言う。 173cmとスーパー・バンタム級では長身の部類に入る。痩せ身で手足の長いボクサー体型。だが恵まれた体格をしていながら、塩谷は減量に、ほとんど苦しまなくても済むという。川島会長は「身体のセンスがある」と表現する。そしてもうひとつ、川島会長はこう評価する。「練習に取り組むセンスがある。非常に真面目に練習に取り組む子」 その姿勢は、取材に訪れた日、指導にあたる栗田トレーナーのアドバイスに真剣に耳を傾け、何度も確認しながら、繰り返し反復練習する、塩谷のひたむきな姿にも伺えた。そして、栗田トレーナーは彼の中に、外見からは伺い知れない、人一倍負けず嫌いな一面があると言う。 「スパーリングで、例えば10回やったら9回勝てる相手にたまたまやられる。それが悔しくて、塩谷は泣く。その1回が許せないんだね。練習でもそう。教えられたことを自分で思い通りにできないと、それが悔しくて泣く。泣きながら、それでもできるまで練習する」 かつて塩谷にプロの自覚を持てと叱責した栗田トレーナーが、「プロの顔になってきた」と認めたのは、東日本新人王準々決勝の石橋光伸(本多)戦。デビュー5戦目のことだった。川島会長が言う。 「1戦1戦、自信が大きくなってきているのがわかる。ジムでの会話、態度からもそれが見て取るように感じられますね」 自ら認める、かつての甘さという一面は、まだプロになる前、川島ジムにたどり着くまでの塩谷にも、垣間見えるように思える。両親は2、3年で帰って来るだろうと息子を見送った。だがその期間で塩谷は、全日本新人王というひとつの結果を残し、自ら答えを出してみせた。 「体には気をつけて、がんばれよ」 と今では両親も応援してくれているのだという。自分の内にあった甘さ。まずは、それに打ち克つことが、塩谷にとってのスタートラインだった。 次戦は、すでに全日本新人王決勝の前から、3月2日に行うことが決まっていた。その日、塩谷は初のメインイベンターとして後楽園ホールに登場する。そして、その2日前の2月29日には、小縣が初のタイトルを賭け、名古屋でOPBF東洋太平洋王座決定戦に臨む。誕生日が4日しか違わないこのかつての同級生にも、塩谷はひそかにライバル心を燃やしている。 「少しは差を縮められたかなと思ったんですけど、また離されちゃいますね。彼の存在はやっぱり気になるし、刺激にもなります。実は全日本決勝の前、川島ジムに小縣が練習に来たんです。ぼくに会うためじゃなくて、会長の指導を受けるために(笑)。動きを見るとさすがだなって思ったし、勉強にもなりました。でも、いつかは追いつきたいですね」 1月のランキングで、日本スーパー・バンタム級の10位にもランクされた。塩谷は「次のステップは日本チャンピオン」と位置付ける。現在のスーパー・バンタム級は、全階級を通じても、最も層が厚いクラスと言って過言ではない。一昨年度の同級全日本新人王、宮将来(ヨネクラ)は、新人王獲得後、3戦全勝ながら、塩谷と入れ替わりでランクから外れてもいる。 今後はいっそう厳しい戦いが、塩谷を待ち受ける。だが塩谷は、まだ先にある次なるスタートラインの前に、しっかりと自分の足元を見つめている。 「今のぼくの力ではまだまだ。これからも今まで通り、ひとつひとつステップを上がっていきたい。とにかく一生懸命に練習して、1試合1試合、練習したことを出して勝つ。それがこの1年の目標です」 全日本新人王獲得にも、決して有頂天になってはいない。今の自分を素直に見つめ、ただひたむきに練習することが、自分を強くすると知っている。 「今はとにかく、もっともっと強くなりたい。ただ無心に強くなりたいんです」 |
