ろくでなしの蝮
 
私はジムから逃げるように 砂原洪一



 「あぁぁ、またやっちった」

 コウジ有沢が本望信人に完封された夜、というか翌朝、私は水道橋界隈の路上で通行人に叩き起こされたらしい。らしいというのもおかしな話だが、前後不覚の泥酔状態で記憶がまったくない。やさしい人に家まで送ってもらった。

 鉄格子の中で目覚めた朝、使っちゃいけないアツい金を鉄火場で溶かしちまった朝、目が覚めると頭に包帯がぐるぐる巻きになっていた朝、見知らぬ人のベッドで指先がピキピキと攣るような極度の脱水症状で目覚めた朝。

こんな朝は決まって朝陽がウザい。そして私は呻くように吐く、「あぁぁ、またやっちった」と。まったく、後悔先に立たず、打たず、買わず、飲まず、だ。ニュアンスに重い軽いの程度の差こそあれ、三十数年幾度となく、ノーガードで立ち向かっていき、穴ぼこにはまる度に吐いてきた台詞。元来がお調子者で注意していても治しようがないなら、このこわれた頭を常態と思うよりほかない。それではこのまま、ぼちぼち書いていこうと思います。砂原洪一です。よろしくどうぞ。


時代は、赤城武幸と古城賢一郎がホールでヒールぶりを誇りあい、しのぎを削っていた。その頃、私は四回戦ボーイでありました。両雄がまとうオーラが大好きで、自分もあのオーラをまといたい切に願ったものです。三島由紀夫の小説「鏡子の家」に登場するボクサー深井峻吉のイメージを赤城武幸にダブらせていた。トップアマからプロに転向し日本王座を獲得した夜、つまらぬケンカで拳を割られ挫折して、右翼の活動家に転向していく峻吉。が、しかしだ。わが身を顧みれば、憧れとは残酷なもので、英雄主義にかられ、ボクシングジムに飛び込み、「英雄主義は敗北する」という自分の信じた思想どおりの顔で自殺していく原口の方がお似合いだった。


 私はジムから逃げるように、ただひたすら走った。自分の内心のバランスを必死で守るために、自分を知るために、いや、もっと言えば、自分を愛するために走った。
ツンと冬の匂いの冷気が鼻腔にひろがる。
「シャッカ、シャッカ」とウィンドブレーカーが擦れ合う音は耳に心地よかった。アスファルトを蹴りつける靴音とともに、しだいに巻き込まれるようにそのリズムに酔っていく。
「お前はボクシングを信じ切れるのか?」
「信じでながったら無になっちまうべよ」
幾度となく自問自答しながら走りつづけた。

二年前の春にデビュー戦を判定で拾ったっきり、勝てなかった。恥だけをさらすような連戦連敗も三つを数えたところで間隔が空いた。そして、やっと組んでもらった試合を三週間後に控えたスパーリング中、左フックを放つとバキッと脳天まで激痛が走った。骨折だった。
「骨が舎利でも負けやしねえぞ!」
と思ってはみたものの思っただけで試合はキャンセルした。

「あぁぁ、またやっちった」
もう居場所がねえな、とジムから足が遠のき、一人ぼっちで膝っ小僧を抱くようにして自分自身を慰める。

先輩ボクサーがジムの帰りに部屋を訪ねてきた。
「負けが込むとだんだん小さくなっちまうんだ。そして辞めっちまう。俺は十年間いろんな奴を見てきたからわかるんだ。あんまり張りつめんなよ」
とだけいうと季節はずれの鰻重とカルシウム剤を差し入れて帰っていった。私は久々にひとり泣いた。鼻水ジュルジュル垂らしながら、みっともなく突っ伏して泣いた。

へこたれて、巣の中で寝そべってばかりでは日常に飛躍がないな、とギブスをしながら走り始めた。ボクサーであり続けるために、だ。16キロのロードワークを自らに課した。肉体的苦痛をともなうはずのロードワークが、何処までも走られる気分になり疲れを知らない。走る苦痛が極まるとその苦痛が快感に変わる、まさにランナーズハイの状態。脳下垂体から分泌される麻薬性物質ベータ・エンドルフィンの中毒患者だったのかもしれない。そのトリップのおかげでネガティブな思考から開放され、勝つ思想を内蔵した力石徹になりたいと夢想するまで回復していた。タイムも60分を切った。生の統一作用がなめらかに回転しだした。

この頃の練習日記にはロードワークのタイムが書いてあるだけだが、稚拙な字で踊るように
「壊れぬ拳、無尽蔵のスタミナ、タフなアゴ、ボディを打つ勇気、勝つ思想が内蔵された肉体」
と欲しいものが筆ペンで殴り書きしてある。熱に憑かれてとはいえ、真っ直ぐにラリってる。
「人間の欲望は他人の欲望の模倣でしかない。一切の欲望は必ずその方向づけのモデルを必要とする。だが、それは必ず他人の欲望と取り替えのきかない私に固有のものなのだ!」
と何からの抜粋だろうか、殴り書きは続いている。

魔物が棲むリングで勝ちきれない私には、ボクサーとして、いや、人間として致命的な欠陥があったのだ。
(以下次号)

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