今から12,3年前になるだろうか。何かネタはないかと、Aジムを訪ねた時のことである。Bマネジャーから「丸山さん、面白い子がいるんだけど、よかったら書いてよ」と声を掛けられた。聞けば、18,9の頃から5年間もジムに通っている女性で「いつかプロになりたい」と事あるごとにBマネに訴えているのだという。「他のジムにもそんな女性、いますよ」と私が素っ気ない返事をすると,Bは「いや、それがさ、この前プロテストに受かったばかりのフライ級とスパーやらせたら、ものの見事な右のカウンターでダウンさせちゃったのよ」。「へえ、やりますね」と答えた私にBマネは「今日も、スパーやる予定だから見てかない」と言葉を継いだ。
女とプロの卵をスパーなんてさせていいものなのか、と思いながら佇んでいた私は突然、面長で目鼻立ちの整った美女と目が合った。それがBマネが話していたC(差し障りがあるのでイニシャルで呼ぶことにする)だった。Bは「デイリー・スポーツや専門誌に書いている丸山さん」と紹介し「Cさんのこと、どうしても書きたいんだってさ」と勝手なことを言っている。
当時は米国内で女性のボクシング進出が叫ばれ初めた頃で、既に得体の知れないプロ団体も設立されてはいたが、まだWBCも女性のプロを認めていない時代だった。そして、何もボクシングの領域まで女が荒らすことはないじゃないか、というのが私の偽らざる気持ちだった。そんな私が何故,Bの口車に乗って女ボクサーを取材しなくてはならないのか。そう感じて憮然としていた矢先に肩を叩かれた。振り向くと、AジムのOBで7,8年前に引退した元世界チャンピオンのKが立っていた。「体がなまってしょうがないので、週に1,2度来て動いているんです。・・丸山さんは誰の取材?」。口ごもる私に「Cさんを書いてくれるんだってさ」とまたBが言う。
「そりゃ、丁度いい。実は今日、俺がスパーの相手なんです」。KがCを指さしながら、言葉を添えた。
こうなったら、記事にするしかないではないか。・・しかし、私のそんな曖昧な気持ちはCとKとのスパーを見ているうちに吹っ飛んだ。前後左右と自在に踏むステップ、鋭いジャブに感心していたのが1ラウンド目。2回、Bマネが話題にしていた右が元世界王者の顔面にヒットすると、次ぎの瞬間、Kの右の瞼から鮮血が吹き出したのである。「あらら、切れちゃった」。そのKの一言でスパーは即刻、中止された。「世界チャンプをTKOしちゃったね」と声を掛けた私にCが傲然とした面もちで言った。「私に、記事にする値打ちを認めて下さいました?」
翌週のデイリー・スポーツに私はCのことを書いた。「俺がCとスパーやって目切ったこと絶対書かないでね」というKの強い要望もあり、私が書いたのは、Cがアルゲリョの芸術的なボクシングに魅了され、高校を卒業すると両親の大反対に遭いながらもジムに通い始め、毎朝15`のロードワークと1時間のウエイトトレーニングをこなし、週5日のジムワークを自らに課した結果、4回戦を凌ぐ女性ボクサーが誕生した。そんな内容だった。記事が掲載されてから数日経ったある日、彼女から電話が入った。表向きは記事にしてくれた事への礼だったが「あの内容では私という人間が少ししか伝わっていない」という不満が随所に込められた電話であった。400字詰めの原稿用紙に直せば3枚に満たない短いもので、何でもかんでも乗せられるわけではない。そのことを斟酌して勘弁して欲しい。私は「何を言っていやがる」という気持ちを抑えながら、そう言って電話を切った。ともあれ、こうしてこの取材は終わったはずだった。
Cから再び電話が掛かってきたのは、最初の電話から2週間ほど経った日のことだった。「どうしました?」。私の言葉に、Cは溜めた息を一気に吐きだすように「聞いてもらいたいことがもっと、もっとあります。記事にしてくれというわけじゃありません。もっと分かってもらいたいことがあるんです」そう言うと「丸山さんの都合のいい日を言って下さい」と畳みかけてきたのである。要するに、もう一度二人で会って、自分を知ってもらいたい、と言うわけだ。
面倒くさいな、という気持ちが一瞬、突き上げてきたが、相手は24歳の美人である。「分かりました。00の日はどうですか」。私は即座に答えていた。今、思えば、それが私の失敗だった。そして新宿の酒場で待ち合わせた私達が、その日行き着いた所は高円寺駅近くのCのマンションの一室だった。
タクシーを捕まえ、二人して乗り込んだ時、私はしたたか酩酊していたが、男ならではの期待を持たなかった、と言えば嘘になる。。だが、その期待はすぐに不安に変わった。車中、彼女は一言も発せず、身じろぎもせずにタクシーが進む方向を見据えていたからである。やがて彼女はある町名を言い、間もなく車は止まった。そして私は速歩で階段を上るCに引きずられるようにして、三階にある1DKの部屋の客となったのである。部屋に入り、辺りを見回した私の目に飛び込んできたのは夥しい量のウエイトトレーニング機器だった。シングル・ベッドがその無機的な物質に追いやられるように、部屋の奥に置かれている光景に、私の酔いは一挙に醒めていった。
「この部屋であたしはあなたに、ボクサーとしての自分を語らなければならなかったんです」。そう前置きして、Cの話は始まった。「酒を何かもらえないか?」。げんなりしている私に「悪いけどお酒は置いてないの」と答えながら、彼女の長く寒々とした話は始まったのだった。
(以下次号)
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