ドロップアウト・パンチ


『 U 一夜のドラマ そのエンディングの無残 』

Text by Katsuya Ohkubo



「えっ、マジで?ウソでしょ、そんなの……」

 敵に出し抜かれたことを知った敗北者は、それまでの饒舌と気丈の色を一度に失った。そしてわずかの沈黙のあと、唇を小さく震わせ、みるみる目に涙をためながら、どうにか言葉をつないだ。

「だってさ、オレが勝っても世界戦なんてなかったでしょ……」



 01年12月19日、後楽園ホール。意外性とコントラストに富んだ一夜のドラマに、一取材者のボクはすっかり翻弄されてしまった。とりわけ、その無残なエンディングがどうにも尾を引き、ただでさえ鈍いペンをなおさら重たくするのだった。





 そもそも、メインイベントの対戦カードそのものが“まさか”の始まりだった。

 ノンタイトル10回戦のリングで相対することになったのは、世界のトップ10にいる日本2階級制覇王者と、日本ランキングの最下位(10位)に名を連ねたばかりの新顔だった。

 その前者、横山啓介には調整ゲームでも、後者の山口真吾(渡嘉敷)からすればリスキーな冒険マッチである。また日本人同士、それも彼らのような在京ジムの看板ボクサーが、そうした不釣合いなタイミングで本番を行うというのも珍しい。

 実はそこにとんでもないカラクリが潜んでいたのだが、事前にそれを把握していたのは仕掛人と側近のみで、マスコミや観客はもちろん、リング上の両雄さえ何も知らずにグローブを交えたのだった。



 ともあれ、ミスマッチを当り前に制するだろう横山に、ボクはさしたる関心をもたなかった。気になっていたのは、やはり山口のことである。デビュー戦から2連敗のあと10連勝中の22歳は、衆目を寄せるほどのタレントではなかったはず。ボクは2試合前のKO勝ちを会場で見ていたが、『左が多彩。ワンツーとまとめ打ちがいいがパンチない』といった取材メモを見直さねば思い出すことができなかった。その彼が、この冒険マッチの意図や渡嘉敷勝男会長の期待をいかに受け止め、それをどれだけリングで示せるのか。案の定、全力のファイトの結果敗れたとき、どのような顔をして何を語るのだろうか。また渡嘉敷会長は、そんな愛弟子にどのような言葉を用意しているのだろうか……。試合後に見聞きしたいことは山とあった。

 だが、戦後は主役(横山)を取材するのがボクの本来の務めである。そこで、この夜に限っては編集者にテレコを預けて横山のコメントを録音してもらうよう依頼し、ボクは山口の控え室にいかせてもらう算段をつけてから座席についたのだった。


 第二の“まさか”は、リングで起こり始めていた。新顔の山口が、試合を牛耳っているのである。忙しく出入りしながら左右の長短打を上下に打ち分け、定期的にヒットを重ねていく。

 一方、3ヵ月前に大阪で奪ったチャンピオンベルトを携えて入場してきた横山はといえば、いつまでも余裕と威嚇のポーズばかり。たしかに、上からじっくりと敵を見下ろす構えは威圧感にあふれ、時おりの左右フックや右アッパーは強烈だった。しかし、それ以外のアクションがほとんどないのだから、しだいに威厳を失い、相手は大胆になってくる。3回のスタートで一度は打ち勝ち、4回には圧力を増して相手の打ち終わりにフックを狙い打ったものの、山口の手数と運動量にはとても及ばない。

 後半戦に入った6回、バッティングで右目の上をカットした横山だったが、それも火をつける材料とはならなかった。実に淡白。右クロスや左フックをせっかくヒットしても、簡単に相手を逃がし、追うことも途中で放棄してしまうのだ。さらには、左トリプルなどを不用意に浴びて相手を助長する。7回も終盤になって初めて攻勢に転じ、一気に距離をつめてから右ストレート、左フック、左ボディと続けざまにクリーンヒットしたものの、1分間のインターバルでまた元へと戻ってしまった。

 そんな日本王者の気のない戦いぶりに苛立ちや疑問を募らせたのは、きっとボクだけではあるまい。山口が懸命のファイトで試合を優勢に運ぶなか、横山は悠然と構えてはいるものの、ファイトする姿勢や勝利への意欲がまるで伝わってこないのだ。

 なぜ追わないのか?なぜ打たないのか?それでもチャンピオンなのか?!

 横山の手数が少ないことは元より知っている。が、その格やキャリアからすれば青二才の分際にいいようにかき回され、敗色濃厚となってきても新たな動きがないというのは、どうしたことだろう。もしも、ここで負けてもタイトルは手元にあるなどと胸算用を立て始めているのだとしたら、あまりに人を愚弄している……。



 第三の“まさか”は、戦後のリングにあった。

 試合は結局、山口がペースを支配したまま終了。ラスト3分間で横山のカウンターも当たったが、新顔の大金星は火を見るよりも明らかだった。

 ところが、「98−95、97−96、99−95の3−0で勝者、山口」と場内にコールされるや、飛び跳ねて喜ぶ勝者に背を向け、赤コーナーでぐったり肩を落として立ちすくむ24歳が信じられなかった。

 「あれじゃ勝てるわけないよ」「よくチャンピオンになれたよね」……。

 リングにまだポツリといる日本王者に目もくれず、ぞろぞろと出口へ向かう人々の会話をボクはすれ違いに聞きながら、山口の控え室へと急いだ。そこで第四の“まさか”が待っているとも知らずに。



「もう言っちゃっていいのかな?」

 ヒーローの隣で一緒になって報道陣に受け答えしていた渡嘉敷会長が、突然に誰かに確認をとってから、こう切り出した。

「じゃ、発表します。来年の2月27日、WBC世界チャンピオンの崔堯三(チェ・ヨンサム)に山口をぶつけます……」

 重大発表にもかかわらず、主役の山口は平然と椅子に座ったまま、手にあった缶ジュースを口に運んだりしている。そして、記者から不意にコメントを求められ、

「あっ、ビックリしました。頑張ります、もう」

 などと繕うような返事をし、周囲の笑いを誘った。

「じゃあ、山口クンはぜんぜん知らなかったの?」

「いま知ったんだよな」 

 渡嘉敷会長があとを引き取り、揚々と種明かしを始めた。

「世界なんて一言も言ってなかったんです。今日勝ったら、発表しようということでしたから。だから、オレはもう試合中にドッキドキしちゃって(笑)。途中から勝ちを確信しましたけどね。見事な素質。去年あたりから、どんどん伸びている。ムチャだろうと思うことをやったときに、その人間の器が出る。彼の練習を見てるから勝てると思ってたけど、『負けてもいいから、いけ』と山口には言っておいたんです。

 崔は13ヶ月もブランクあるし、勝算はあります。いける勢いのあるときにどんどんいく。オレもそうやって金平会長にチャンスもらいましたから……」

 山口よりも嬉しそうな元世界チャンピオン。やがて報道陣の囲いがとけたころ、ボクはその強気なマッチメイキングの狙いや背景を改めて尋ねてみた。すると、期待以上の言葉が返ってきた。

「うちの山口と林田(龍生=00年全日本新人王)のスパーリングを見にきてください。もう壊れるんじゃないかと心配するぐらい、バッチンバッチンやり合ってますから。マッチメイクは選手の性格とかにもよるけど、たしかなのはチャンスがあるから頑張るんじゃない、頑張るからチャンスがあるんだよ、ということ」


 番狂わせの殊勲を遥かにしのぐ、電撃的なハッピーエンド。その締めにもってくる一文はもう決まった。ボクは早く家に帰って原稿を書きたいという欲求に駆られ、武者震いがするのだった。敗者の控え室を訪れるまでは……。


「……今回も10ラウンドくらい。2試合続けてスパーやんないと距離感つかめないのかな。ジャブしか当たんないんすよ……ちょっと情けない。恥ずかしいっす……」

 陽気な部屋を後にして向かい側の控え室に入ると、意外にも陰気くさくはなかった。敗北者はまだ語りの最中。バッティングで負った傷のほかに目立った外傷や腫れは見られず、あの戦いぶり同様にサバサバした表情を浮かべている。

「今日は会長に無理にお願いしてやった試合なんですよ。本当は(チャンピオン)カーニバルまで待とうと言われたけど、『ちょっと生活できないから、12月に一試合お願いします』と。だからノンタイトルになったんですよ。それでやられちゃ、シャレになんないって(苦笑)。情けないっていうのか」

 と、やはりさっきまで陽気な部屋にいたライターの丸山幸一氏が、自省を促すかのようにこう言った。

「オマエさん、もう知ってるのか?向こう(山口)は次、世界戦だよ。さっき発表されたんだけどな」

「えっ、マジで?ウソでしょ、そんなの……」

 向かいの部屋での山口とはあまりに好対照の、横山の一瞬で凍りついた顔や震えだした声を、ボクはいまも忘れることができない。

「だってさ、オレが勝っても世界戦なんてなかったでしょ……いやぁ、いい踏み台になっちゃったなー」

「また今度さ、鍋でも食いいこうよ」

 かつてのメキシコ修行時代からの仲というカメラマンの山口裕朗氏が、ファインダーから顔を上げて声をかけたものの、かすかに横山の口元が弛んだだけだった。

「笑えねー。どうしようって感じです。減量きついもんな。いまので凹んでるしね。自信なくしちゃったな……」

                                           《つづく》

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