| 拳闘書感想譚 | ||
| 「 ボクシング年鑑 」 | Text By 中津川 一路 |

ボクシング年鑑に目を通したことがあるだろうか。ボクサーの戦いが、あくまで記録として記載されているものだ。 ボクサーの戦いは長いものではない。4回戦ボーイで3分×4=12分。6回戦で18分。10回戦で30分。12回戦で36分。区切りの時間を入れたとしても、一試合1時間にも満たない。選手生活も5年すれば長い方だ。その中にはチャンピオンとして歴史に名を残したり、100戦以上闘う者もいるが、1戦、または秒単位程度、闘っただけで、リングを去ってゆく者も確実にいる。 年鑑に羅列されるボクサー、一人一人の記録の積み重ねがボクシングという競技のステイタスを成立させている、と思う。わずか数行の記録にも、彼らの「証」が息づいている ファンのみなさんも年鑑を持って会場に行き、リングで戦っているボクサーのプロフィールを調べながら見ると、また別の楽しみ方が出来るでしょう。 さて現在、ボクシング年鑑はボクシングマガジン社が年鑑を製作しているが、どんな形で製作しているのだろうか、データベースはどの程度のものだろうか、と思ったことが発端だった。 ちらちらと話を聞くうち、年鑑はコミッションが作っていた時期もあり、様々な形で引き継がれ、現在に至っているということがわかってきた。 その歴史を浅薄ながら年を辿って、追ってみた。ただ当時の関係者の多くは他界なさっており、その内容は不確定な要素が多いことはご容赦いただきたい。話を聞かせていただいたのはJBCの小島事務局長、ボクシングマガジンの平田編集長、ワールドボクシングの前田編集長の3人。 「私がいちいち説明するより、これを読んだほうが早いよ。」と小島事務局長がページを開いてくれた。 68年度版年鑑、巻頭言。 以下抜粋 『曽つて、郡司信夫さんが編集発行しておられた「日本ボクシング年鑑」は大変好評で、各方面から調法されていましたが、数年前急に中絶してしまいました。年鑑の製作には大変な人出と費用を要するのに、販売収入は極めて僅少で、残念ながら一個人の善意や努力だけでは到底なりたたなかったという実情であります。しかるに、業界は勿論のこと、報道関係者の方々からも「年鑑復活のご要望の声は大 きく、私といたしましても、こんなにまで必要でかつ有意義な企画が、単に経済的事情だけで実現できないということはまことに、残念至極と思い、郡司信夫、石川輝、下田辰男、中村勇の四氏の協力を埃って、ついにコミッションが発行することに相成った次第であります。この新版「ボクシング年鑑」がいささかでも大方各位の御便宜となれば、私といたしましても望外のよろこびであります。 1969年4月 日本ボクシングコミッショナー 真鍋八千代』 68年度版の後記抜粋(中村氏記)。 『郡司信夫氏の独力刊行による本邦唯一の「ボクシング年鑑」が1940年度版を最後に中絶して以来というもの、系統だった記録保存はまったく空白状態におかれてしまった。』 「日本最初の年鑑。拳闘年鑑」 ボクシングマガジン編集部の片隅に、日焼けしたセピア色の背表紙が並んだ書棚がある。それが郡司信夫文庫だ。ボクシングジャーナリストの草分けとしてボクシング界に多大な貢献をした、郡司信夫さんが寄付なさった文庫である。 年鑑は郡司さんが中心となって最初に作成され、そして亡くなるまで関わっていた。作成の動機はエバーラストの年鑑を見て作り始めたらしい(前田編集長・談)」 その書棚の中味について書く前に、郡司信夫さんについて簡単に紹介したいと思う。 編集者として2年ほど働いた後、1934年(昭和8年)、26歳のときにガゼット出版社を設立し、ボクシング専門誌「ボクシング・ガゼット」を発行する。合わせて「拳道会ボクシング練習場(略称BGジム)」を開設。 その後、軍務に徴収されたが、戦後1921年に6月、日本で最初のパブリックジム・日本拳闘会社(中央銀座)を同志と共に設立、代表となった。(その後、日活と合併し辞任)。 以後、新人王戦を企画発案したり、テレビ解説を努め、1952年にJBC設立と同時に理事に就任。JBC倫理委員会、同制度改革委員長、ランキング委員などを歴任した。「スポーツ功労賞」「銀一杯=勲四等相当」が贈られた。(JBCが叙勲申請より抜粋、加筆) 書棚内の戦前の区分けに郡司さんが、フライ級からミドル級までクラス別の戦績を記し大学ノートが残されていた。当時はこうやって記録を残していくしかなかったのだろう。今となっては考えられない労力を費やしたと思う。 濃紺のインクは今でもくっきりとボクサーの戦跡を残していた。 その他、ガゼット誌やその他、当時の専門誌や海外の雑誌などがあったが、その中に埋もれるように一冊だけ、1940年版の「拳闘年鑑」があった。昭和14年12月10日発行1円 送料六銭。 A5版の表紙をめくると、巻頭には皇紀弐千六百年とあった。トップの挿絵にはピストン堀口と玄海男を中心に当時のスター選手を書いたものや、当時のトピックがあり、吉本武雄著のボクシング教則「拳闘読本」再録が半分ほどを占め、後半に年鑑が記載されている。最初に記載されているのは光山一郎という選手だ。 L級選手権者 ◇金思聾 ◇朝鮮黄海道年◇ウェルター◇初め帝拳に学ぶ ◇高等像備 校卒業◇左ストレート◇ダンス◇二五歳 ◇五尺六寸 と記録されている。趣味・特技、学歴が表記されているのは面白い。 ページをしばらく捲ると、片隅にバックナンバーの広告があった。 最初は1935年版(昭和10年)五十銭、39年度版が八十銭、1940年度版が1円。それ以前の年鑑は見当たらなかったが、35年のものが最初のようだ。 後記には編集部員が軍務に徴収されていく経過なども書かれていた。太平洋戦争が徐々に激化し、戦前の年鑑はこれを最後に中断し、復活するのは1958年(昭和30年)になる。 「ガゼット版年鑑」 中断した年鑑が復活したのは58年。発行したのは、郡司信夫さんのボクシング・ガゼット社。中断した間も郡司さんは、記録を取っていたらしい。 ガゼット版は58年版から62,63,64年の合併号まで、計5冊発行されている(A5版・270円程度)。市販されていたかどうかは不明だが、やはり採算が取れなかったということなので、発行部数もさほどでもなかったようだ。 編集は郡司信夫氏が国内全般、石川氏が主にレコード、下田辰夫氏が海外、小林正三氏がアマチュア、中村勇氏が雑務と担当し、その作業行っていたそうだ。当時の年鑑を読むと、その年の流れや出来事、記録だけではなく、担当者の意見が述べられている。アマチュアについてもきちんとした記述はなされているのは、今となっては回顧的な気分になってしまう。記録に関してはフライ級からランキング上位のものから記載されている。 補足すると石川氏がサンケイ(後共同)、下田氏が読売、中村氏が東京中日スポーツで、と、それぞれに仕事をしながら協力して、編纂作業をしていたという。 当時はデータベースを扱うツールも発達しておらず、その作業の困難さは想像に難くない。加えてコスト面でも大変だったらしく、広告にも多くのページを割いている。その担当は松永きく氏(女性のボクシングジャーナリスト)で、あちらこちらから広告を集めてきていたそうだ(ガゼット誌自体がジムなどの広告が大きな収入源だったらしい)。もっとも採算よりも発行することに意味がある、と思っていたようだ。 年鑑の発行に関して、この頃から既にベースボールマガジン社の協力を得ていた。しかし結局、ガゼット社は「トラブルもあって、郡司さんが身軽になりたかったから(前田編集長・談)」廃刊となり、1964年ボクシング・ガゼット社はベースボールマガジン社に吸収される。 そこで62,63、64年版の合併年鑑が発行されることになったようだ。 「コミッション版、年鑑‘68〜70」 そして68年版にコミッションが年鑑を復活されるまで、3年が空白となっている。 その理由はわからないが、おそらく発刊する目処が立たなかったようだ。 その頃新聞社を定年退社した中村氏が、コミッションで、中村勇氏が年鑑専従として籍を置き、発行し始めたものの、1000部程度の発行部数(1000円)では、やはり採算が取れず、発送や、その他の作業でも困難を極めた。千代田区三崎町にあったコミッションのあるビルの階段を、「痛風を煩った中村氏が、足を引きずりながら本を抱え階段を上っていた。」と小島局長は回想している。そんなこともあったのか、中村氏はJBCを去り、かねてから協力してもらっていたボクシングマガジンに発行作業の全てを委託することになる。 「ボクシングマガジン版・年鑑‘71〜 コミッションからベースボールマガジン社に移った年鑑は単行本型A5版のハードカバーという従来の形で発行される。背表紙にベースボールマガジン社と表記されてはいたが、中身の編集作業については、郡司、石川、下田各氏が主となって行っていた。「最初は資金面でJBCの補助を受けていた。(前田編集長・談)」そうだ。発行部数は2、3000部だった。 1980年にカラーグラビアの百科事典のような豪華な装丁で出されたが、値段の問題もあったのか(2800円)、結局、元の形に戻り、やがてB5番の雑誌スタイルに変わり、現在のスタイルに落ち着く。現在は別冊の形で発行され、販売部数も以前よりは遥かに増加している。「それぞれが分担作業で年鑑を作成している(平田編集長)」そうだ。 昔の年鑑と今の年鑑を比較して、どうこういうことは出来ないが、かけた手間というものは、はっきりとした形には表れないものの、何かその物に宿るような気がする。現在の年鑑の方が明らかに見やすく、明らかにデータ的に上だろう。しかし、古い年鑑の、その摩れた装丁と危うくなった紙質に記されたボクサーの記録には、ある種の重さを感じた。 最後に私事で恐縮します。 コミッションで年鑑を見させていただいたとき、68年度版の一隅に、僕の父の名前を見つけた。その記録のみを記した僅かな記事から、無名のボクサーだった父の若い時の姿が、垣間見えた気分になった。自分よりも若い父を想像すると、懐かしいような切ないような気持ちが沸いてきてしまった。 古い年鑑を開くとき、昔の自分の、あるいは知り合いの、あるいは身内の名を年鑑に探すこともあるだろう。その記事を見つけたとき、その人は何を思うだろう。 年鑑にはそんな読み方もあると思う。 |
