| Text By 船橋真二郎 |
思いがけず彼と「再会」を果たしたのは、今年の8月、東京都大田区にある池上本門寺で開かれた写真展『拳闘人間』でのことだった。おそらく季節は晩秋か初冬の頃なのであろう。刈り入れが終わった田んぼの中で、うっすらと靄がかかった山と河を背景に、彼は私服姿でファイティングポーズを取り、写真の中に収まっていた。32歳とまだ若いはずの彼の体型は、現役時代とほとんど変わりがないように見える。ただひとつ違うのは、当時より長く伸ばしたヘアスタイルになるだろうか。それは、写真家・佐藤ヒデキさんが3月に出した、韓国人ボクサーばかりを撮影して収められた写真集の中の1枚だった。会場の中央にある佐藤さんのコーナーに展示された1枚1枚には、元世界タイトル保持者や元世界タイトル挑戦者など、歴戦の韓国人ボクサーたちの個性や魅力といったものが、実に見事に凝縮されていた。だが、一連の写真の中でも、彼の佇まいにはどこか奇妙に引っかかるものがあり、ぼくはその写真のことが気になってしまったのだ。 改めて、写真集『KOREAN BOXER』(リトル・モア出版)を手に取り、じっくり眺めてみると、なぜ、ぼくが彼の写真に引きつけられたのか、その理由を理解することができた。それは、写真に収まった彼以外の韓国人ボクサーたちと比較したとき、より明瞭になったのである。一部の例外を除き、彼らのほとんど全員が、ファイティングポーズを取って写真に収まっている。ある者は誇らしげに、ある者はごく自然に、またある者はちょっぴり照れくさそうに。ぼくが、彼らの姿から共通して感じ取ったことを言葉にすれば、過ぎ去った自らのボクサー時代を「彼らはしっかりと受け入れているな」ということだった。それは、佐藤さんが彼らにファイティングポーズを取ってもらった理由のひとつである、「その人のいちばんいい時代をよみがえらせたい」という意図が具現化された証だといえる。そうなのだ。彼らは、自らのいちばんいい時代としてボクサー時代を受け入れていることが、写真の中の姿から伝わってくるのである。 それでは、写真の中の彼はどうか。右足を後ろに引いたオーソドックスの構えながら、右手を前に高く掲げ、やや左斜めに前傾を取った彼のファイティングポーズは、実に様になっている。だが、この写真を決定的に印象づけているのは、何より彼の表情なのである。何とも言えぬ戸惑いが浮かんだような、どこか寂しげな表情。一言で言えば「悲哀」を感じさせるような1枚なのである。背景に田舎の、それも枯れ果てたような風景があるからというのでもない。「彼は受け入れきれていないのではないか」。そう思わせるものが、確かにあるのだ。この1枚について言えば、佐藤さんの意図は、残念ながら失敗に終わっていると言わざるを得ない。彼がボクサー時代をいい時代として受け入れているようには、この写真を見る限り、とても伝わってはこないのだ。ただ一方で、ぼくがそう感じてしまったのには、彼に対する先入観が働いていたからかもしれなかったのも否定できないことだった。 彼は日本のリングで世界ランキング入りを果たしている。そして、その試合の対戦相手がマネージメント契約を結んでいた日本のジムと、今度は彼が契約を結び、その後、日本のリングで活躍することになった。日本のボクシングファンにとっては、馴染みのある選手でもあったのである。中でもとりわけ日本のボクシングファンに彼を印象づけたのは、時のWBA世界ジュニア・バンタム級チャンピオン鬼塚勝也に挑戦した試合だった。2−1のスプリットデシジョンで、鬼塚が3度目の防衛を果たしたその試合の判定は、試合後、物議を醸すことになる。国際試合であるという理由から、日本のリングで使用していた日本名のリングネームではなく、本名の韓国名で登場したにも関わらず、両者が国内のジムに所属しているという、明らかに矛盾した理由から、3人のジャッジのうち2人が日本人であったことも、判定に疑問を投げかけることになってしまった。唯一、彼の勝利とつけていたのは、中立国パナマから招かれたジャッジだったのだ。さらに後日、当時の故保坂誠コミッショナーが、記者懇談会の席上でこの試合に触れ、「鬼塚の負けだった」と発言したことも波紋を投じている。 テレビでその試合の中継を見ていたぼくの判定も彼の勝ちだった。押し入れの奥に眠っていた、その試合が録画されたビデオテープを引っ張りだして、今、改めて見てみても、その印象が覆ることはなかった。体を振り、手や肩を使い、巧みにフェイントをかけながら、独特の間合いで左のジャブを上下に打ち分ける。時折見せる右ストレートのカウンターも、ロープ際に追い詰めて突き上げる右アッパーも有効だった。だが、この試合で最大の見せ場を作ったのは、鬼塚の方だった。第9ラウンド1分、鬼塚の右ストレートが、彼のワンツーに対するカウンターとなってアゴを捉えると、彼の膝が一瞬ガクリと折れたのだ。それでも、巧みなボディワークとステップワークで、鬼塚の繰り出すブローの、そのほとんどをミスさせた彼が、試合の全般に渡って主導権を握り続けていたのは、間違いないのではないかと思われた。 彼は試合直後、勝利を確信して両手を上げ、判定が下った後、何が起こったのか図りかねているといった感じでリング上に呆然と立ち尽くした。彼の思いは、その姿を、ブラウン菅を通して見ていたぼくにも、伝わってきた気がした。その試合からしばらくすると、彼の名前を聞くことはなくなり、いつの間にか彼は、リングから姿を消してしまった。最高の舞台で最高のパフォーマンスを見せたにも関わらず、予期せぬ最悪の結末を突きつけられてしまった悲運のボクサー。少なくともぼくは彼に、そのような印象を持っていたのだ。 そのような目で写真の中の彼を見たとき、彼が、彼にとっては思い出したくないはずのあの試合から10年近くが経っているにも関わらず、ボクサーとして撮られることに戸惑いを覚えるのは当然であり、ボクサー時代をいい時代であったと受け入れられているはずがないだろうと、ぼくが勝手に思い込んでしまったとしても、無理はないことなのかもしれなかった。それでもなお、ぼくの中でそう帰結してしまうには、納得のできないものが残るのも事実だった。ぼくが10年半前に見た彼、林小太郎こと林在新(リム・ジェイシン)の背中から、当時のぼくが受け取ったのも、『KOREAN BOXER』の中の彼から感じ取ったのと同じく、やはり「悲哀」だったからである。 今から約10年前、ぼくは京都市の北の外れにある大学に通う学生だった。京都市北部の東寄りを南北に走る叡山電鉄というローカル線に、茶山という駅がある。宮本武蔵が吉岡一門と決闘したことで有名な一乗寺下り松から程近い所で、かつてそこには、洛翠ジムというボクシングジムがあった。1995年に松島聖悟会長が亡くなったのと時を同じく、ジムはその歴史を閉じている。 小学校低学年の頃、父親が買ってきた『あしたのジョー』を夢中になって読んだ。それが、ぼくとボクシングとの最初の出会いだったように思う。以来、世界タイトルマッチの中継があると、テレビの前に座り込み、食い入るようにブラウン菅を見つめるようになった。高橋直人が高校生で全日本新人王に輝いたことを新聞で知ると、深夜のボクシング放送をビデオに録画して見るようになり、高橋ナオトの活躍に胸を躍らせた。そして、辰吉丈一郎、鬼塚勝也、ピューマ渡久地ら、平成三羽ガラスが日本のリングを沸かしていた高校生の頃には、ついに後楽園ホールに通うまでになっていた。そんなぼくのボクシング熱がピークを迎えていたのと、甲子園を目指すというほどの強豪校ではなかったのだが、高校3年間のほとんどを、そのために費やしていた野球という目標を失ってしまい、日々の生活に物足りなさを感じていたのとがちょうど重なったのであろう。実家のある東京を離れ、ひとりで何かに挑戦してみたいという気持ちもあって、ぼくはその洛翠ジムに通うになっていたのだ。今、口にするのは恥ずかしいことだが、ぼくの頭の片隅に「プロボクサー」という5文字が、なかったわけでもなかった。 その夜は確か、雨が降っていたように記憶している。ジムに通うようになって、1か月が過ぎたか、過ぎないかという頃だった。その日、ジムは閑散としており、やがて、ジムにいるのはぼくとジムの女性マネージャーの2人だけになった。そのうちジムに1本の電話が入ると、事務所から出てきては外を眺めたり、また戻ったりと、そわそわと落ち着かない様子になったその女性マネージャーも、しばらくしてジムから出て行ってしまい、ジムにいるのはぼくひとりだけになってしまった。そのときぼくは、黙々と縄跳びを続けていたように思う。そして、程なくして戻ってきた女性マネージャーが、誰かに伝えたかったのだという感じで、小声でぼくにこう告げた。「小太郎が帰ってきたよ」。見ると、確かに前夜、東京で鬼塚とタイトルマッチを戦っていた林在新が、松島会長の後から、ジムに入ってきた。洛翠ジムと契約を結んでいる林だったが、普段は韓国のジムで練習をしていた。実際に林を見るのは、それが初めてのことだった。どう対応したらいいものかわからず、黙って会釈をしたが、林はもちろん一介の練習生には目もくれず、松島会長とともに事務所脇の小部屋に直行した。韓国から来たと思われるトレーナーなど数名の男が、ぞろぞろと後に続いて中に入って行った。 半開きになったその小部屋の扉越しに中の様子を窺っていた女性マネージャーが、練習を終えたぼくを手招きした。招かれるまま、彼女の隣に立って中を見ると、パイプ椅子に腰掛けた林の背中が見えた。周りを取り囲んだ者たちが、険しい顔つきで話している声など耳に入らない様子で、林は小さなテレビに映し出された映像を、身じろぎもせず、食い入るように見つめていた。それは、前夜の鬼塚戦の映像だったのだ。「昨日の試合は勝っていたよね……」。女性マネージャーがぽつりとつぶやく。ぼくは林の背中から目を離すことができないまま、あいまいにうなずいた。(あの背中に、そんな言葉は何の意味もなさないだろう)と、心の中でつぶやきながら。背中から滲み出てくるかのような林の感情を受け取ったぼくは、やるせない気持ちで帰途についたのだった。 何も今に始まったことではないのだが、最近、ボクシングの専門誌上やHP上などで、判定問題が話題になっている。それは8月24日、大阪でチャンピオン小松則幸(エディ・タウンゼント)と挑戦者トラッシュ中沼(国際)の間で争われたOPBF東洋太平洋フライ級タイトルマッチで、ピークに達した感がある。判定問題でひとつ危惧されているのが、ファン離れである。確かにそうだろう。あれ以来、ぼくも以前ほどの熱を込めてボクシングを見なくなってしまった時期があった。関西地区では放送がないからと、深夜のボクシング中継を収めたビデオをわざわざ東京の実家から毎月まとめて送ってもらっていたのだが、それもやめてしまった。高校生の頃から毎月、ずっと熱心に買っていたボクシングの専門誌も買わなくなり、その後、京都時代に買ったものはすべて引越しの際に捨ててしまった。そして、しばらくしてぼくは、洛翠ジムをやめてしまったのだ。それがすべての理由ではなかったかもしれないが、林の背中を見て以来、ぼくのボクシングに対する熱は急激に冷めてしまったようなのである。 ファンの疑問を呼ぶような判定が下されることは、確かにボクシング界にとって由々しき問題である。だが何より問題視されるべきは、戦った当事者、ボクサーへの影響であろう。ボクサーは誰しも勝利を目指してリングに上がる。もっと言えば、彼らは「結果」を求めてリングに上がるのだ。その結果とは彼が勝つにせよ、負けるにせよ、公正なものでなければならない。判定についてボクサーには何の責任もないことなどは、言うまでもないことだ。あの試合、鬼塚は林に勝つために、いつものように自らにできる最善の準備をしてタイトルマッチに臨み、劣勢ながら、最後まであきらめることなく、林を追い続けた。林は林で鬼塚に対し、自らの持てる最大限の力を発揮したのだ。 今さら過去の試合の判定を蒸し返すつもりもないが、これだけは言いたい。ボクサーは文字通り、命をかけてリングに上がる。そのボクサーたちをジャッジするということは、彼らの人生をもジャッジするのと等しいことなのではないか、と。 ぼくは、写真展『拳闘人間』の打ち上げの際に知り合った松田優子さんと連絡を取った。『拳闘人間』に、自らも作品を出展していた松田さんは、『KOREAN BOXER』の撮影の際、佐藤ヒデキさんの撮影助手を務めた人である。彼女によれば、林在新さんは現在、ソウルから車で2時間から3時間ほど北に行った地方都市で、携帯電話の販売店を経営している。家族は奥さんと子どもが1人か2人。実に平穏な生活を送っている様子で、今はその事業を拡大することに熱意を投じているのだそうだ。ボクサーとして写真を撮られることについては嫌な顔ひとつせず、ボクシングのことなど思い出したくもないという風にも見えなかったという。ただ林さんの顔が、一瞬、曇ったように見えたときがあったのだそうだ。それは、ボクシングをやめたときの話になったときだった。林さんは今でも日本語を少しは話せるそうで、言葉でのコミュニケーションも少しは取れたらしい。ただ、その話については韓国語だったため、あまりよく理解はできなかったそうなのだが、どうやら契約が宙に浮いたような状態になってしまい、フェイドアウトするような形でボクシングをやめたらしいのだ。当時、まだ22歳の若者だった林さんにとってみれば、何とも悔やまれるような終わり方だったかもしれない。20代の後半の頃、日本のリングにもう1度上がってみないかと誘われたこともあったが、その頃にはすでに現在の事業を始めており、その話を断ったということもあったのだそうだ。 携帯電話の販売店を経営するようになるまでの林さんに、どういったことがあったのかは知れないが、とにかく彼は現在、幸せな生活を送っているということではあるらしい。しかし、だからよかったのだと言えるものでもないように思われるのだ。確かにあの試合で、仮に林さんが世界チャンピオンになっていたとしても、現在のような幸せな生活を彼が手に入れられたどうかはわからない。結果的にせよ、よかったのではないかと言うこともできるだろう。未来のことなど誰にもわからないのだ。だが、少なくともこれだけは言えるのではないだろうか。もし、彼が人生の分岐点であったかもしれないあの試合で世界チャンピオンになっていたとすれば、その後の人生がどうあれ、後年、ボクサーとして撮られたとき、その写真が、あのような「悲哀」を感じさせるような1枚になってしまうということは、なかったのではなかろうか、と。 おそらく『KOREAN BOXER』のあの1枚には、林在新のボクサー人生が正しく投影されている。どうやらぼくの思い込みだけでもなかったようである。ぼくが評価するなど、おこがましいことなのだが、あの1枚は、見えないものまでをも余すことなく写し出した、見事な1枚だったのだ。佐藤さんには敬服しなくてはならない。被写体にファイティングポーズを取ってもらったことについて、「その人のいちばんいい時代をよみがえらせたい」ということ以外に、佐藤さんはこんなことも言っている。 「現役を退いてからどれだけ年を重ねたとしても、ボクサーにとってはファイティングポーズこそ、その人がいちばんよく表現される姿なんやね」 |