「いんちきチャンピオン! 次は東京行ってヤレや!」
関西なまりだった。
8月24日、大阪市中央体育館サブアリーナで行われた東洋太平洋フライ級タイトルマッチ。地元・大阪のチャンピオン小松則幸は、世界ランクに名を連ねて久しい実力者トラッシュ中沼を東京から迎え、12回フルラウンド、渡り合った。採点の結果は、115対114、中沼、115対114、小松、――115対113、小松。2−1のスプリットでチャンピオンの防衛が告げられた瞬間、リングを包む空気は変わってしまった。
小松はリングの上で、ほんのかけらほども、いんちきなどしていない。ただ、正々堂々と、戦っただけである。彼の健闘、奮闘は、試合を見た誰もが知っていたはずだった。なぜ、勇敢なボクサーが罵声を浴びせられなければならないのか――。息苦しいほどのやりきれなさは、しばらく消えなかった。
この試合は、チャンピオン側にとって危険な賭けだった。危険を承知で組むほど、意義深い一戦だった。東洋太平洋の王座を保持する無敗のチャンピオンは、国内の同級世界ランカーたちを無視して、“世界”へ突き進むことだって出来たのだ。しかし小松は、知らぬふりをしなかった。先の2度目の防衛戦のリングで、「(国内に)まだまだ戦わなあかんヤツがおるから」と、“国内最強決定戦”を希望した。
日本ボクシング界で“一地方”にすぎない大阪で、外国人ばかりとタイトルを争ってきた24歳の王者は、自分の力を知りたかったに違いない。肩書きと実力が見合っていること、“世界”へ挑むにふさわしいボクサーであることを証明したかったに違いない。
そのためには、中沼は最高の相手だった。日本中のボクシング・ファンの誰もがその名を知り、長らく世界ランクに名を連ねる実力者。異論が起きた判定負けで王座を失ったばかりの元日本チャンピオン。彼に勝てば、自他ともに、納得させることができる。
しかし、満員の観衆が見守る中で明らかになったのは、否定しようのない実力差だった。正面からプレッシャーをかける小松は、中沼の唐突で多彩な左、右カウンターに、初回から行く手を阻まれた。
「正直、相手の方が一枚上手やった」
ガードの間から相手の動きに目を凝らし、瞬時に最適なパンチを選択し、相手のスキをつく、チャレンジャーの変幻自在のボクシング。それを崩す術を、チャンピオンは持ち合わせていなかった。一途に、真前から手を出す以外、工夫する余裕もなかったのかもしれない。
一見、中沼の手数は少なく見える。スイング気味のパンチはオープンブローにも見える。が、ほとんど毎ラウンド、小松のアゴが上がるシーンがあった。「クリーンヒット」であるかどうかは、明らかだ。たしかに小松はずっと「アグレッシブ」を貫いた。が、距離を詰める際にもショートを食い、細かく手を出してもそのことごとくをブロックされた。
4回から鼻血を流し始め、8回には右アッパーを痛烈に浴びて一瞬動きが止まった。ロープ際でワンツーを畳み掛けられた時は、主審から“ダウン”が宣言されて然るべきだった。
「気持ちだけは、負けなかった」
それは真実だろう。チャンピオンがキャンバスに落下することを拒み続け、その後のラウンドも愚直に手を出し続けるさまは、小松の試合をはじめて見るまったくの第三者の心を揺さぶるものだった。天性のハートがあるのだ。まだ技術は磨かれていないが、磨けば宝石になるかもしれない。この試合が、そのきっかけとなることを願いながら、リング上を見つめているうちに、12回終了のゴングが鳴った。互いに健闘をたたえあう風景があった。
テレビのインタビューに答え、関係者の祝福を受けて控え室に戻ってきたチャンピオンは、記者に囲まれた。
「微妙やったと思う。でも、勝ちには納得してますよ。オレは絶対倒れへんと思ってたし、倒れそうなくらいキツいということもなかったし。今できるボクシング、今自分ができることをやったと思ってます。
……ええ勉強になりました。今までの勉強より、ずっと大きい勉強。前へ前へ、で、世界獲れるかっていうたら、獲れない。駆け引きっていうかね……ええ勉強になったと思います」
村田英次郎・エディタウンゼントジム会長は、この判定についてどう思うかと質問され、「見たとおりです」とだけ答えた。世界戦を4度も経験している会長も小松自身も、あくまでこの日の勝負において、どちらの力が上だったかを、十分に承知していた。
「勝ったんだから、いいじゃないですか」と、小松の人間性に惚れ込んでいるというライターが、満面の笑みで話しかけてきた。本心で言っていたのだろうか。下された結果は、小松にとって最良だったと考えるのだろうか……。たしかに負けなければ表面上、傷はつかない。ジムにとってはタイトルホルダーがいるか否かは興行上死活問題でもある。だが、いったい何のために組まれた試合だったのか。ボクサー小松にとってこれは、本当に“世界で戦える”選手になるための大切な過程なのだ。
負けて評価が上がる試合というのがある。危険を冒して組んだ、衆目が注がれたこの一番こそ、そうなりえる試合だった。一つ一つの勝負において、傍観者の目に入っているのはリングの上で戦う二人の姿だけであり、内容も結果もすべてひっくるめて、ボクサーの所業として記憶されていくものだと思う。“トラッシュに勝って無敗をキープした”小松は、重い十字架を背負わされてしまったのではないだろうか。沸き起こる異論を受けて、再戦が組まれるようだが、それは、チャンピオンにとっても幸いだっただろう。しかし、そのリマッチで小松は、2試合分の“結果”を求められることになる。
舞台は、同じ場所になるという。
あの「いんちき」という言葉が、リングの中、下にいたしかるべき人たちの耳に、心に刺さっていたことを、願ってやまない。
|
|