彼らの肖像 Vol 10

Text By 船橋真二郎
Photo By 山口 裕朗

河田 喜代治(かわた きよはる)



 ごくたまにではあるが、庭の向こうから車の通り過ぎる音が聞こえてくる。そんなとき、はっと我に返ってしまうのだ。この空間が、ぼくらが普段当たり前に感じている世界とは、まったくの無縁な所にあるのだと。山と田んぼに囲まれた長閑な場所であるからという、ただそれだけではない。ゆったりとした時の流れの中にも、確固としたものを感じさせる凛とした空気が、ここには漂っている。ここは過去を未来へ運ぶ中継点。止まった時の流れをそのまま未来へと送り出す、ある種、異質な空間なのである。

 訪ねたのは、冷夏とはいえまだ暑さが残る8月下旬のこと。千葉県茂原市近郊の某所。古い木造家屋を借り切った、ヒノキの香りが鼻腔に心地よい工房に彼はいた。窓という窓を開け放った広間で、板切れを座布団代わりに、背中を丸めてあぐらをかいている。彼はここで、ところどころをまっさらな木片で補修された古い木彫りの仏像を前に、左手に持った木片を一心に彫り続けているのだ。見ると仏像の足の指先は欠けてしまっている。彼は今、室町時代の仏像の指先を蘇らせようとしているのである。

「適当に指先の形に彫ればいいというものでもないんです。仏を感じさせる、決まった作りっていうものがあるんですよ。人間のようで人間とは違う。男であって女でもあるような……。一言で言えば美しい形。美しい形じゃないと信仰の対象にはなりませんから。それは、作家の作風やその時代によっても決まってくるんです」

土間で焚かれた蚊取り線香などお構いなしで、室内を虫が飛び回る。彼の二の腕に、虫に刺された跡が赤くぽつぽつとできてくる。それでも気にも止めない様子で彫り続けている。頭の中には指先という細部だけでなく、常に全体の「美しい姿」があるのだという。

「気持ちが乱れていると、それが彫りに出てしまうんです。だから彫っているときは集中します。その集中力はボクシングと通じるところがあるかもしれませんね」
現在、仏像などの文化財の修復を専門に行っている工房は、数えられる程度しかないという。その仕事に携わる、限られた人たちの中に、ひとりの元プロボクサーがいる。


 橋浦憲一(帝拳)との試合を最後に、河田喜代治さんが現役を退いたのは、今から2年半前のこと。約2年のブランクを含め、7年3か月の間に16戦9勝(1KO)6敗1分という戦績を残し、最後はA級ボクサーに昇格している。

「ボクシングは嘘がないっていうか。正直なところがいいですよね。練習したら、練習した分だけの成果が試合で出る。全てが自分の責任になりますから。そういう常に自分自身との戦いの中で、みんなが真剣勝負をしている。ボクシングは本当にいいなって思いますね。幸せだったな、今振り返ってみると」

ボクシングを始めたきっかけは元世界ヘビー級チャンピオンのマイク・タイソンだった。中学生のとき、初来日したタイソンが東京ドームでトニー・タッブスをKOした試合をテレビで見た。それがボクシングという存在を知った初めての経験だったという。物心ついた頃から絵を書くのが好きな、笑ったり、泣いたり、悩んだり……。ごく普通の子どもだったそうなのだが、ボクシングをやろうと思った理由が、

「タイソンを倒してやろうと思った」

というのだからふるっている。

千葉県成田市の自宅近くにはボクシングジムがなかったため、すぐに行動に移すことはできなかった。それどころか、どこでボクシングを始めればいいのかすら、その頃の河田さんにはわからなかったという。だが、いつか必ずボクシングをやってやろうと、高校生の頃には部活に入らず、筋力トレーニングで日々体を鍛えていた。

「自分を思いっ切りぶつけられるものというんでしょうか。何かひとつのことに、自分の全てを出し切って戦いたいっていうか……。そういうものが欲しかったんでしょうね」
友人から千葉市にボクシングジムがあることを教えられたのは高校3年の秋頃。河田さんは迷わずその本多ジムに入門する。初めてのスパーリングでタイソンを倒すという野望は早々と打ち砕かれたが、河田さんはどんどんボクシングに引き込まれていった。

「初めてのスパーリングの相手はジムの6回戦の選手だったんですけど、ぼくのパンチはまったく当たらなくて。もうタイソンを倒すどころじゃなかったですね(笑)。それからはプロの選手に、まずは1発でもいいからパンチを当てられるようになるにはどうすればいいのか。練習が終わって、家に帰ってからもずっと考えたりして、常にボクシングのことだけ考えてました」

 高校卒業後の1993年11月28日、フェザー級4回戦でのプロデビューを判定勝利で飾る。そう聞くと、いかにも順調にスタートを切ったかのようだが、河田さんにとっては克服しなければならない、ボクサーとしては致命的ともいえる弱点を知らされたデビュー戦でもあった。

「デビュー戦は、結構いいように勝っちゃったんですよ。でも、その頃のぼくはまだパンチがなかったし、倒し方のコツも全然わかってなかったから、相手がうまく倒れてくれなくて。とにかく殴るしかなかったんです。相手はすごい頑張るいい選手で、顔なんかすごい腫れちゃって……。ぼくにパンチがあれば、もっと簡単に、きれいに倒してあげられたんですけどね。殴ったりすることにちょっと引け目を感じてしまったとこがありました」

 その後も河田さんはリングに立ち続けるが、この思いを全て払拭することができないまま、1997年7月14日の6回戦を最後に、いったんはブランクを作ることになる。

「今振り返れば、結局、自分が弱かったっていうこと」

そういう弱い自分がいたのは恥ずかしいことだから、本当はあまり話したくはないのだと、河田さんは顔を歪める。再びリングに立ったのは、その弱い自分を克服するためでもあった。

「ボクシングを離れてみると、やっぱり燃えるものがないというか……。自分の身を削って、お互いが死ぬか生きるかの真剣勝負をするあの緊張感は、やっぱりいいものだなと思ったんです。それに、弱い自分のままでは絶対にダメになっちゃうと思ったし。このままだと自分がどこに行ったらいいのかも、わかんなくなっちゃいそうだったから……」

 カムバック後は7戦して3勝4敗。初めてのKO勝ちを1ラウンドで記録したりもしたが、数字だけを見れば、結果を残したとは言い難い。だが、河田さんが手にしたのは数字以上に大きなものだった。

「自分の弱い部分は消化できたと思います。精神的に強くなれたんじゃないかな。(ボクシングに)戻って、本当によかったと思います」

ボクシングで自分と向き合い、逃げずに戦った河田さんは、自分自身との戦いに勝利を収めたのだ。



 夕方、工房が修復を依頼されている鎌倉時代の仁王像を、河田さんに案内されて車で近くの寺まで見に行った。戻った頃にはすっかり日も暮れ、辺りは真っ暗になっていた。すでに、工房の親方であり、文化財修復家で造形作家の河本雅史さんと、工房で働いているもうひとりの久保暁子さんが、戸締りを済ませて我々の帰りを待っていた。工房の仕事は大抵、日暮れとともに終わるという。

「自然光の中でしか見えない微妙な凹凸が仏像にはあるんです。その本当に微妙な凹凸が見たいんですね。電気の光だけではそれが見えないんです」

 こう河本さんが説明してくれた。工房の壁には、こんな文章が掛かっている。

≪古いものはすでに江戸や明治の頃にも修理された跡があるそうです。解体すると中にメッセージがあるわけではないのですが、最初に作った人や修理をした人のノミの彫り跡や木の組み方を見ると、後に修理をする人にどう直してほしいのか、などの思いが伝わってくるそうです。修理はモノを直すだけではなく、その文化財に関わった人たちの思いを、途切れさせずに伝えていくことであると河本さんは思っています≫

 彫り跡や木の組み方、そして、その微妙な凹凸から、数百年前の人たちのメッセージを感じ取り、修復は進められるのだ。

 小さな仏像で修復に要する期間は大体1年。大きなものでは5年掛かりになるものもあるという。これだけでも気の長い話だが、もっと気が遠くなりそうになったのは、この仕事が本当に評価されるのは数百年先になるという河本さんの話を聞いたときだった。

「修復の出来がいいか悪いかは素人目ではなかなか判断できません。専門家の間では評価することができますが、本当に評価されるのは、私たちのような携わった者が死んだ後なんです。この仕事は数百年前から伝わるものをそのままの形に修復して、さらにまた数百年先に伝えていくこと。次に修復されるときに、出来のいい仕事をしたか、出来の悪い仕事をしたかが、初めて評価されるものなんです」


 きっかけはカルチャーセンターの新聞広告だった。ボクシングをやめてからしばらくは、「毎日が憂鬱でつまらなかった」。引退後は、その頃携わっていた仕事に専念しようと考えていたが、いざやめてみると、やる気がなくなってしまったという。河田さんがボクシングに代わるような何かを求めていたことは間違いない。

「仏像彫刻の教室の広告を見たとき、『これだ』って思いました。迷わずすぐに電話しましたからね」


 実はその教室の先生が河本さんだった。河本さんは当時の河田さんについて、こう振り返る。

「今はもう丸くなりましたけど、教室に来たばかりの頃は、目がぎらぎらしていて怖いぐらいでしたよね。他の生徒さんとは、まったく違う雰囲気でした」

 毎週日曜日の教室に通い続けた1年間は、仕事から帰ってくると食事をし、それから時間を忘れて仏像を彫り続ける、その繰り返しの毎日だったという。
 思い返してみれば、仏像に対する関心がまったくなかったわけではないという。小学生の頃、図書館にあった本の中の仏像の写真を、好きで見ていたという記憶がある。

「うまく言えないんですけど、子どもが神様を信じる気持ちといっしょっていうか……。仏像の形に、何か感じるものがあったんだと思います。どう説明したらいいのかわかんないけど……」

 形に何かを感じることができる。実はそれこそがこの世界で必要とされる才能への萌芽だったのかもしれない。河本さんは言う。

「彫りの力はもちろん必要ですけど、それ以前に形をとらえることができるか。細部だけをとらえるのではなく、まず全体の形をとらえられるということが大切なんです。全体の形を頭の中でイメージしながら、細かい部分の形をとらえてゆく。河田くんには、その形をとらえる力が最初からありました。頭の中にある形を手で表現する訳ですから、頭と手がつながっていなければいけない。それができるようになるのは結構大変なんですけど、彼は覚えが早かった。勘がいいんでしょうね。教室に来る生徒さんたちは、趣味で来ている方が多いので、仕事では使い物にならないんですが、彼は違ったんです」

 余談になるかもしれないが、取材後、河田さんから残暑見舞いを頂いた。筆ペンで書かれた、その達筆な字に驚かされた。母親は自宅で書道の先生をしていたそうだが、河田さんが書道に興味を持って始めたのは高校卒業後。自宅を出てからだったという。つまり河田さんは、独学で書道を習得したのである。「小さい頃から、母親の字を見ていたから」と河田さんは言う。母親の字を頭に残すことができ、それをイメージしながら書くことができた。「形をとらえる」才能の片鱗であるとは言えないだろうか。

教室を修了後、河田さんは河本さんから声をかけられた。


「大体3年くらいで仕事の全体がわかってきて、ようやく自分で全てを判断できるようになる。そこで初めてその先どうかという程度。まだまだですよ」(河本さん)

 工房に来てから約1年半。「この先どうするのかは、まだ自分の中では組み立てられていません。今はやれることをやるだけ」と河田さんは言う。

 修復の仕事は金銭的には決して恵まれたものではない。「修復だけでは食べていけないから」と、河本さんは自分の作品を作ったり、仏像彫刻の教室を開いたりしているのである。

「大学で修復を学んだ人で、その道に進む人は本当に少ないんです。生活していけるのだろうかという不安がやっぱりいちばんの理由。普通の企業に就職していく人が多いんですよ」

 と言うのは、河田さんの2か月ほど前に工房に来た久保さん。勤めていた通販カタログの会社をやめ、研究生として、文化財修復の専門学科がある東北の大学に1年在籍した後、この世界に入ってきた。ずっと住んできた古い町並みが残る町の開発が進んでいく様を目にしたとき、何か古い文化を守ることに関わりたいと考えたのがきっかけだったという。

「ぎりぎりでも生きてはいけるだろうと思ったので」

 こともなげに久保さんは笑った。久保さんは約2時間をかけて、都内から工房まで通っている。

「やりたいという気持ちの方が、生活の不安に勝ったので、特に気にはならなかった」

 と河田さんは言う。

「ボクシングをやってるときは、ぼくでも頑張ればいい試合を見せられるっていう、ちょっとした自信があったんですよ。それといっしょで、自分の得意分野っていうか、そういう意識はあるんじゃないですかね。自分にできる何かがあるとしたら、ぼくは自分を活かせる最良の道を選びたかったっていうか。例えばぼくに弁護士をやれって言われても、それは無理な話ですよね(笑)。自分が何かの役に立てる最良の道がこれだったっていうことなんだと思います」

 朝8時前に千葉市内にある自宅を出て、車で約1時間をかけて工房に通う。日暮れまで工房で仏像の修復作業に没頭し、自宅に戻って食事をした後は、12月に開かれる河本さんの教室の展覧会に出品する自分の作品を彫る。「酔うと彫りに出るから」と、平日は好きな酒も飲まず、休日でも時間のあるときには自分の作品を彫っているという。まさに仏像のことだけを考える毎日である。

 今でも河田さんは本多ジムの選手が出場するときには、できる限り後楽園ホールに顔を出す。中堀智永(2002年度全日本ミドル級新人王)の試合が行われた8月22日にも、後楽園ホールには河田さんの姿があった。

「花道の後ろに立って見てたんですけど、リングに向かう中堀の緊張感が伝わってきて、あの緊張感はやっぱりいいなと思いました。もしかしたらあの緊張感に、これからもずっと憧れてるのかもしれませんね」

 試合をすることに関してはもう吹っ切れているという。だが、今でもふとしたときに、自宅の部屋で自然とシャドーボクシングをしてしまう自分がいる。その憧れは、リングの緊張感を味わって引退した、ほとんど全てのボクサーが持ち続けなければならない宿命のようなものであろう。そしてその憧れが、多くの場合、カムバックの契機となっていく。河田さん自身、1度ブランクを作った後にカムバックした理由のひとつにもなった。

 その憧れを持ち続けながら、河田さんがここまでうまく自分を御して来られたのは、今ではリングとは違う緊張感を味わっているからかもしれない。

「仏像には、その時代の人たちの精神性が込められているように思います。それはミリ単位の微妙な形の違いで、まったく違ったものになってしまうんです。自分の手で数百年前と変わらない形で後世に伝えていけるかどうか……。自分がそれに関われるのはありがたいと思う反面、責任の重さを感じています」



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