ドロップアウト・パンチ

『風の向くままに……』

Text by Katsuya Ohkubo


『宇宙人』

日本ミニマム級チャンピオン、小熊坂諭がそのように呼ばれていることは、ボクシングファンなら知っている方も少なくないだろう。


 彼の所属する新日本木村ジムのスタッフは、「あいつだけは何を考えているかわからない」と一様に口をそろえる。当の小熊坂も、背中にでっかく『宇宙人』としるしたガウンでリングに登場するほどだから、そのニックネームはまんざらでもなさそうである。
 さて、その『宇宙人』を絶句させた地球人が、この7月に同じミニマム級の東洋太平洋チャンピオンとなったことは、まだあまり知られていないのではないだろうか。



新日本徳山ジム所属の22歳、大中元気である。

 話は、小熊坂が日本タイトルを奪取した2月10日の後楽園ホールまでさかのぼる。
 大中は、岡山県から夜行バスを利用しての0泊3日という強行軍で、その日の前座に出場するジムメイトの手伝いと応援にやってきていた。
 そこで彼は、何のためらいもなく、奇行に及ぶのである。
 ボクの隣の席で4回戦の試合を眺めていた彼は、
「ちょっと、小熊坂さんに挨拶してきますね」
 と言って席を立った。
 そしておよそ10分。軽い足取りで戻ってきた彼は、ボクにこう報告した。
「小熊坂さんに変な顔されちゃいましたよ。『新日本徳山の大中ですけど、今日勝ったらボクと試合して下さい』て言うたんですけどね」
 もうあと2時間もしないうちに、タイトルをかけた大一番を迎えようというのである。いくら『宇宙人』でも、普通の精神状態ではあるまい。そこへきて、いきなり現れた男から対戦要求などされれば、面くらうに決まっている。しかも聞けば、それが二人の初対面だったというではないか。大中は当時すでに世界ランクに名を連ねていたものの、中国・九州地区を主戦場とする彼を、はたして小熊坂が認知していたかどうだか。
 大物なのか天然者なのか。とにかく、大中という男はたまげた玉である。一歩間違えば、いや間違わなくとも無礼なその行いを、寝起きの小便でもするかのようにしゃあしゃあとやってのけ、しかし跡の水を濁すこともなく涼しい顔で帰ってくるのだから。いつもは明朗な好青年で、上辺だけの虚勢や卑しい打算などとも無縁であるだけに、よけいに唖然とさせられる。
 本人によれば、そうした奇行は珍しいことではなく、コミュニケーションでもあるそうだ。
「その人の試合を見て、おもしろいなって思ったら好きになるというか、勝敗とか抜きに話したくなるんですよ。だから喋らんかったり、嫌な顔する人もおるけど、ボクは試合前から相手と仲良くなることも多いんですよ」(大中)

しかし、それだけでは説明のつかない対戦要求を、彼は以前にも敢行している。
渡嘉敷ジムの大山悦トレーナーが、苦笑いしながら話してくれたことがあった。
 「えっ?大中って、あの徳山のですか?よく知ってますよ。だって、いきなりうちのジムに電話かけてきて、『新日本徳山の大中ですけど、林田(龍生)さんと試合させて下さい』とか言ってきたんですよ。おいおい、ちょっと待てと……」
 林田といえば、ジム一番の出世頭である。00年にジムで初めての全日本新人王に輝くと、渡嘉敷会長が課した世界トップクラスとの3連戦を経て、またもジムで初めての東洋太平洋チャンピオンとなっている(3度防衛して返上)。
 では、その林田サイドに、これ以上ない直球を投げ込んだ大中は身のほど知らずか、と言えばそうでもない。
 大中もまた、ジムの一期生にして最大の看板ボクサーなのだ。
 自宅近くにオープンしたジムに中2から通い始めた彼は、ちょっとした話題の少年ボクサーとして何度か地元のテレビ番組に登場したこともあったという。17歳3ヵ月で迎えたプロデビュー戦を2回KO勝ちで飾ると、林田よりも1年早い99年に西日本新人王に。全日本新人王決定戦は三者三様のドローで敗者扱いとなったものの、翌月のランキングで日本10位に入るという特例を受けたほど、その実力は評価された。
 その後は地道に6回戦から歩んでいくことになるのだが、林田に限らず自分より後に出てきた選手に、一気に頭上を越されていくことは、いい気はしないはずである。
 しかし、大中が渡嘉敷ジムへ電話したのは、ジェラシーからでもないし、挑発が目的でもない。試合に飢えていたのだ。
 日本10位にランクされた彼は、勤めていた会社を退社してボクシング第一の生活をスタートした。はいいが、翌00年は1試合(2回KO勝ち)しかしていない。
 原因は、地方の小さなジムの有力選手にありがちなパターンで、どのジムからも対戦を拒まれていたのである。
 たしかに、相手のジムサイドからすれば、大中のようなキャリアのある選手をわざわざ遠方から招き、自前の選手にぶつけることのリスクは大きい。並の選手なら食われてなお損をするわけだから、二の足を踏んでしまうのも致し方ない面もある。
 ちなみに、前出の渡嘉敷ジム・大山トレーナーによると、大中の対戦要求をのまなかった理由は、そのやり方のまずさ以上に、林田は予定路線を着々と進行中であるためというものだった。
 ひたすらに対戦オファーを待つ日々。それでも大中は腐ったり、尖ったりせず、弁当配達のアルバイトをしながら、ジムで練習を続けていた。林田への対戦要求も、他に道がないから自分で動いてみたまでのことだった。
 そうした一途な男は、逆境に強いものである。

01年9月、和田峰幸生(筑豊=現日本7位)にKOされて連勝も7でストップ。すると、皮肉にもすぐに次戦が決まる。彼の所属ジムが興行主となり、大中はそのメインに据えられたのだが、3ヵ月後にセットされた舞台は荷が重いようにも思えた。初めての8回戦で、相手もまた初めての日本ランカー、水野貴彦(クラトキ=6位)。しかし、彼はそのハードルを難なく越えてみせる。持ち前のヒット・アンド・アウェーで日本6位を常に圧倒し、6回にはワンツーでダウンも奪うなど文句のつけようのない完勝だった。翌02年5月の次戦では、さらに格上の世界ランカー、松本博志(小倉高橋)を破る殊勲の星をあげ、わずか半年あまりで日本ランカー、そして世界ランカーへと躍進したのである。
 ちょうどそのころから、大中はこう漏らすようになっていた。
「何でもええから、形に残るものが欲しいですね」
 かつては、「チャンピオンになれ」と多大な期待を寄せる会長と、自分の自信や裁量とのギャップから、たびたび衝突していたが、それもなくなっていったという。

そしてこの7月、東洋太平洋タイトル決定戦で同級1位の羅基文(韓国)に大勝してチャンピオンとなり、「形」を手に入れた。
「試合やる前は、えらい(辛い)からもうこれで終わろうと思ってたけど、勝ってみるとまだ終われんかなぁ……ガムシャラな自分を見せたいいうか、結果はともかく自分の限界を見てみたいです」(大中)
 それが、いつ、どの舞台で訪れるかは本人にもわからない。かねてから熱望している和田峰とのリベンジマッチになるのか、13戦全勝(11KO)のロデル・マヨール(比国=WBC4位)を相手に予定している初防衛戦になるのか。世界に挑戦したって、天井が見えないこともありえる。

ボクが大中と話をしたのは、2年前の電話取材が最初だった。ちょうど試合に餓えていたころであるが、そのときに彼が何度も口にした言葉がある。
「風の向くままに生きてますから」
 決して、いい加減に適当にというのではない。どうにもならないことで嘆いたり憤ったりせず、やることはしっかりやっておくということ。
 当時20歳だった大中は以降、身をもってその意味と尊さをボクに伝えてくれているのである。

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