ニューヨーク日誌 番外編  By 加茂佳子




ニュージャージーにガッティを見に行くの巻 2

 そんなわけでアルツロ・ガッティの試合を見に行こうと思いたったのである。 ……そんなわけもなにも、前号ではただガッティが好きだということ、うちの猫はとても愛らしいということしか書いていないが、いきなり話は進むのである。

 ファンとして一度はガッティの生ファイトを見ておかねばなるまい。

 昨年11月19日、私は成田空港にいた。心臓が激しく波打っていた。海外旅行に出るときのウフフな高揚感とは違う。飛行機に乗る前のビビリとも違う。本当に行っちゃっていいのであるか?と、私はこの期に及んで迷っていたのだ。

 なぜか。

 観戦のために渡米するというのに、試合のチケットを持っていなかったからである。

 なぜか。

 買えなかったから。 

 完売だったのだ。確かにチケットを買おうとした時期は遅かった。試合2週間前。でもノンタイトル戦ですよ。1万3千人も入る会場ですよ。一枚ぐらい残ってたっていいじゃない。アルツロ・ガッティ、人気があるにもほどがある。

 しかし何度チケットマスターというネット上のチケット売り場の画面を開いても、ガッティVSウォード戦の残りチケット数は0のままである。

 うーむ。

 だが気持はすでに、ニュージャージーはアトランティックシティに飛んでしまっていた。ボードウォークホールで「ガッティィィィィィィ」と半狂乱になるイメージトレーニングだって何度もやった。気合い十分。

 行くしかあるめぇ……。

 逆転KOしか勝つ可能性が残っていないボクサーの心境である。

 私は生まれながらのマイナス思考人間なのだが、不思議とこのときばかりは何とかなりそうな気がした。これは間違いなく「打たれても前進、ノーガードで突進」のガッティ効果と思われる。

 が、情けないことに渡米することはほとんど人に言わなかった。「いや〜、ニュージャージーまで行ってテレビ観戦してきちゃった」などなったらあまりに私が可哀相である。格好悪すぎる。

 そんなわけで私はこっそり機上の人となったのだった。


 ニューヨークの宿泊先に着くと、まず最初にノートパソコンをインターネットにつなげた。チケットにキャンセルが出ていないかチェックするためだ。

 0。

 あーそうですか。

 非情である。試合は翌々日である。少し涙ぐんだ。

 パタリとパソコンを閉じるとマンハッタンに住む友達に電話をかけ、晩ご飯を食べる約束をした。それまで時間がある。失意のときには元気な人に会うのがよろしい。私はボクシングジムに行くため地下鉄の駅に向かった。

 28丁目のジムにはわが師がいる。ウィリー・ダーン。65歳だか66歳だか失念したが、まぁそんなお年頃の老トレーナーである。3年前、わずか一ヶ月少々で、運動神経のない私を(しかも全然望んでないのに)アウトボクサーに育てようとした無謀な男である。

 彼はいた。ひげに白いものが混じっている。

「ヨーコォ」

 しばし再会を喜びあうと、

「お前いいところに来たなぁ。今からジャミールがスパーリングするから見てけ」

 とウィリーがリングを指さした。

 ジムに入ったときから今日はなんだか大きな男たちが多いなとは思っていたが、よく見ると、その中のひとりは2週間後にWBO世界ヘビー級王者ウラジミール・クリチコに挑戦するジャミール・マクラインであった。

 ウォーミングアップをすませたマクラインとパートナーが、のしのし歩いている。私はリングから1メートルほど離れたところにウィリーと並んで立った。

 チーム・マクラインのひとりが「そろそろ始めるぞ」と声をかけ、マクラインにグローブを付け始めた。

 と、そのときである。その世界ヘビー級タイトル挑戦者がこちらを向いた。

「なんとかかんとか!」(←……英語が聞き取れなかった)

 まさか私に話しかけているわけではあるまい。でも視線はこちらに向いている。誰かうしろにいるのかなと思い、振り向いたが誰もいない。

「君だよ、君」

 彼は私に話しかけていたのだった!

 しぇー。真面目な話、震え上がった。初対面なのになぜ私が声をかけられる……? スパーリングは見学禁止だったのか、と焦った。来なきゃよかったと悔いた。が、そうではなかった。

 笑顔こそ見せなかったが怒っているふうではない。彼はこう確認してきた。

「日本人だろ?」

 この程度の英語ならわかる。かたまりながら頷くと、彼はグローブを指さした。

「これ、ウィニング!」

 おおっ!!!

 マクラインは日本製グローブを使っていることを日本人の私にわざわざ教えてくれたのだった。なんてナイスガイ! この親切とサービス精神に対し、日本人代表としてなにかお答えしなければならない。だが私には語学力が圧倒的に不足しているし、体も頭の中も凍りついたままだ。

「グッドグローブ?」

 と返すのがやっとだった。

 ふむ。

 彼は大きく頷いたが、ひとつだけ問題があると言った。

 緊張度はさらに高まった。そういわれても私はウィニングの社員じゃないし、でもこの人はそう思ってるのだろうか……。

「高い」

「…………へ?」

「高いんだよなァ。これ」

 彼は世界ヘビー級のトップランカーである。まさかアルバイトしながらボクシングはしていないだろう。でも世界チャンピオンにならないと生活苦しいのかな……彼の「高い」のひと言が私の頭のなかでこだました。

 すみませんと謝りそうになったが、そこでスパーリングが始まったので何も言わずにすんだ。心臓に悪いジム訪問であった。

 以下次号。


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