彼らの肖像 Vol 9

Text By 船橋真二郎
Photo By 山口 裕朗

松尾 明(ワタナベ)




 控室前の通路で涙を流しながら、ひとり立ち尽くす男の姿があった。控室でジムメートやスタッフたちからの祝福を受け、言葉少なにひとしきり泣いた後、ほんの半年ほど前まで自分を担当してくれていたトレーナーから、「よかったな」と声をかけられた後だった。満面の笑みとその一言をくれただけで通り過ぎて行くトレーナーをうつむき加減に見送りながら、男はしばらく、その場から動けないでいた。


 話の中に、ふと「ベテラン」という言葉が紛れ込む。「自分も結構ベテランだから」と。その単語に違和感を覚えてしまうのは、満面に少年っぽさを残した笑顔のせいだろう。その日、2003年6月30日、後楽園ホールで行われたセミファイナル・フライ級の8回戦で、松尾明(ワタナベ)は2000年10月27日以来、実に2年8か月ぶりとなる勝利を上げた。6戦6勝(2KO)と、無敗でA級に昇格してきた原口清一(草加有沢)に対し、この日まで18戦8勝(1KO)9敗1分で、4連敗中の松尾。両者の勝敗を分けたのは、勢いの差ではなく、キャリアの差だった。結果こそ5ラウンド負傷判定ではあったが、経験の差を十分に感じさせるような内容だった。8月5日で26歳。まだ若いと言えなくもない年齢ではあるのだが、プロでのキャリアはすでに8年と長い。「映画を見てすぐ泣く」というくらい涙もろい松尾はその間、あるいは負け、あるいは勝ち、何度も涙を流したことがあったという。だが、その日松尾の流した涙は今までの涙とは意味合いが違った。その涙は、今まで「ボクシングで目標という目標をほとんど持ったことがなかった」という男が、ようやく実感できた目標に向かって、勝利という第1歩を記せた後に流した、始まりの涙だった。


 「プロで試合をしたのは思い出作りっていう程度の甘い考えで、1、2戦やったらやめるつもりでした。高校生でデビューしたことは、今にして思えば早過ぎたかなとも思うんですけど、その頃は『高校生でプロ』っていうのが、単純に格好いいと思ってました」

 1995年6月24日、約1か月後に18歳となる高校3年生のときのプロデビューに、目標に向かって第1歩を踏み出したという類の感慨はなかった。判定で敗れたそのデビュー戦の思い出は、

 「恥ずかしいけど正直に言うと、1ラウンドが終わったときに『立っていられてよかった』って、ホッとしたことを覚えてます(笑)」

 松尾がボクシングを始めたのは中学を卒業したすぐ後だった。地元である福岡県の北九州市に、当時ひとつしかなかったボクシングジムに入門した。ボクシングを始めた理由という理由は、特にはなかったという。ただ「ボクシングが好きだった」ことだけは確かだった。幼い頃から、世界タイトルマッチの放送があると、テレビの前でドキドキしながら見ていたこと、『がんばれ元気』を夢中になって読んでいたこと、小学生の頃、おもちゃ屋で大きなグローブを二組買ってきて、5つ年の離れた兄とボクシングの真似事をしていたこと、などが記憶にある。

 元WBA世界スーパー・フライ級チャンピオン鬼塚勝也の母校だったという中学の1年生のときに、まだ日本ランカーだった頃の鬼塚が、試合直後に中学校にふらりと遊びに来たことがあったという。顔に貼られた絆創膏、拳に巻かれた包帯。その姿に「格好いい」と、羨望の眼差しを向けていたことも覚えている。ただ、

「現実は厳しいものっていうことを、変にわかってたようなところがありました」

 という松尾にとっては、チャンピオンになるという夢はもちろんのこと、最初はプロボクサーになることすら、現実的なことではなかったという。

 2戦目に判定で初勝利。その後2連敗を喫したところでボクシングをやめた。


 その松尾が初めてボクシングで目標を持ったのは、自宅近くにオープンしたジムに移籍して2戦を消化し、戦績が6戦1勝4敗1分になったときだった。

「そのジムに行ったのは、もう一度プロでっていう気持ちではまったくなくて、最初は軽く汗を流すつもりだっただけなんです。試合をしたのは会長に声をかけられたから。試合をすればファイトマネーが入るし、小遣い稼ぎになるかなっていう、そんな程度でした」

 だが松尾はこの「普通ならやめると思う」という戦績になったとき、今まで対戦してきた、特に自分に黒星をつけていった選手たちが、この時期、前後してA級に昇格していたことに、刺激を受ける。

「だらだらとボクシングをやってる自分が恥ずかしくなりました。とにかく真剣にボクシングで勝負してみようという気持ちになったんです」

 翌年の西部日本新人王に目標を定めると、松尾はその後、順調に勝利を重ねる。だが不運にも準決勝直後に原因不明の病気にかかって決勝を棄権。さらにその後、当時所属していたジムとの信頼関係にヒビが入るような出来事が重なる。試合直前になって、決まっていたウェイトの変更を、理由もなく求められたのだ。一度ならず、二度までも。二度目には松尾が試合をキャンセル。結局これが移籍の引金になり、松尾は上京する。ようやく本気でボクシングと向き合い始めた松尾の思いは、このときは不完全燃焼に終わった。

 ただ、この西部日本新人王という初めて持った目標は、自分の力を見極めた上で持ったものではなかった。目標とはすべからく、高すぎず、低すぎず、自分の可能性も含めた力量に見合ったものであるべきである。

 なぜ松尾は目標を持つことができなかったのか。それはひとつに「西部日本では4回戦でもポスターに写真が載ったりして、田舎ではちょっとした有名人になる」ということに満足していたということもあったかもしれない。だが、もっと大きな理由は「変に現実をわかっていたようなところがある」という松尾の性格に起因するものだったように思える。

 松尾は九州時代、「マンツーマンでちゃんとトレーナーに見てもらったことはなかった。人のボクシングを見たり、自分で考えたりしながら、ほとんど自己流でボクシングをやってきた」という。つまり松尾には、自分の力がどの程度のものなのかを客観的に見つめてくれる目が、なかったということになる。自分の力を計りかねていては、現実に目標を見据えることなどできない。大言壮語するような性格ではない松尾であれば、なおさらだったのではなかったか。松尾には何より、自分を客観視してくれる目が必要だった。

 では、松尾の力はどの程度のものだったのか。ワタナベジムの宮田正明トレーナーが、移籍してきた頃の松尾についてこう振り返る。

「すでにほぼ完成されていましたね。特に、後ろや横に体を振ってよけるんじゃなくて、前に、パンチに向かってよけながら、相手の内に入って左、右とボディを打つことができていました。これは、なかなか誰でもできるようなことではないんです。『いいものを持ってるな』と直感しました」


 移籍してすぐに組まれた試合こそ、「東京に来たばかりの慌しい中で、気持ち的になんとなく試合したような感じになってしまった」こともあって1ラウンドKO負け。だがすぐに「この試合の名誉挽回」と気持ちを立てなおすと、6回戦で2連勝。2001年2月26日、初めての8回戦で日本ランカーの北野良(ヨネクラ)と対戦する。そして、この試合から先の原口戦の勝利まで、4連敗を記録することになる。

「気持ちが切れてしまったんです。『これだけ練習したのに勝てないのか』って」

 北野戦は僅差の2−0の判定負けではあったが松尾の落胆は大きかった。次の対戦相手も日本ランカーの仲田瑞男(石丸)。だが「気持ちが切れたままの状態」でリングに上がった松尾は、今度は大差の判定負けを喫する。そして試合の翌日から、引退したつもりで遊び回った。

「パチンコ屋でバイトして、バイト仲間と遊ぶ。そんな生活でした。ボクシングはテレビでも雑誌でも、一切見ようとはしませんでした」

 過去にも2度、1年以上のブランクを作ったことはあったが、ボクシングが嫌いになったことはなかった。だがこのときは違った。愛憎は表裏ともいうが、逆に言えば、以前とは違い、嫌いになるくらい本気でボクシングと向き合っていたから、ということになるのかもしれない。宮田トレーナーは「壁に当たっていた」と言う。

「技術的には、ランカーと比較しても遜色ないものを持ってるんです。スタミナもまったく問題ない。ただ8回戦、10回戦ともなってくると、自分のボクシングだけでなく、駆け引きが重要になってきます。長いラウンドの中で我慢して、駆け引きすることを覚えてくれれば」

 そして「松尾には気持ちにむらがあるようなところがある」ということも指摘する。その点については大杉明美マネージャーも口を揃える。「考え過ぎる面があるせいか、気持ちの波が激しい」のだと。


 やめたつもりでも、またやりたくなるのはボクサーの常。松尾も例外ではなかった。実際、この時期「ジムに2か月おきくらいに練習に行って、3日くらいでまた行かなくなる、ということを繰り返していた」。やめるのか、続けるのか……。その日によって揺れ動いていた松尾の気持ちは、何かきっかけがあれば「続ける」という方向に傾くかもしれなかった。

 その松尾に大杉マネージャーから電話が入ったのは、仲田戦からそろそろ1年になろうかという頃だった。世界ランカーの岡田一夫(ロッキー)との試合の打診だった。

「今後どうするのか」「やめて本当に悔いはないのか」

 自宅が寮から近かったこともあって、たびたび近所で松尾の姿を見かけた大杉マネージャーは、そのたびに声をかけていたという。何度か食事に誘って話も聞いた。

 岡田が対戦相手を探しているという話が大杉マネージャーの耳に入ったのは、松尾から「実家に帰ろうと思います」という結論を聞いてから、しばらくのことだった。

「本人にやる気があるかどうかはわからなかったけど、彼にとっては最後の大きなチャンスになるかもしれない。そう思って会長に相談したんです。最初は松尾も『考えさせてください』っていう感じだったので、私は一言『こんなに大きなチャンスは滅多にないんだし、失うものは何もないんだから、やってみたら?』と言って電話を切りました。このままやめたら、やっぱり悔いが残るような気もしましたし。世界ランカーだから、他のジムの選手からも話があることは聞いてましたから、やきもきしたんですけど、それからすぐに『是非やらせてください』っていう返事をくれました」

「毎日つまらなかったし、何もやることがなかったから、もう北九州に帰ろうかなとは思っていました。だけど、最後に試合をして、それで帰ろうかなって。相手はかなり格上だったけど、ぶっ倒されてもいいから、玉砕するつもりで、思いっきりぶつかってやろうと考えていました」このときの松尾はボクシングにケリをつけるつもりだったのかもしれない。だが岡田戦に向けて練習を始めた松尾の気持ちは変化していく。

「試合に向けて、とにかく集中して練習しているうちに、『自分もまだボクシングできるんだ。まだボクシングを続けたい』そう思いました。負けたら終わり。だから『絶対に負けたくねえ』って」

 2002年8月4日、「上京以来、最高の出来」(宮田トレーナー)で岡田戦に臨んだ松尾は、「自分では勝ったと思った」という僅差2−0の判定で惜敗する。

 格上相手に善戦したことは、もちろん自信になった。初めての10回戦をフルに戦い抜けたことも。だがそれ以上に大きかったのは、

「北野戦の前、自分ではほんとに必死に練習してたつもりだったんですけど、まだ甘かったということに気づかされました」

「自分はまだ甘かった」。松尾はここで、ある一大決心をする。担当トレーナーの変更を願い出るのだ。


「今までずっとお世話になってきた宮田さんにその話をするのは、自分でもすごく悩みました。でもボクシングができるのは今しかないと思ったし、人間的に間違ってると他人に思われてもいいから、今までの自分を変えたかったんです。今までとは違うものを吸収したかった」

 宮田トレーナーは、その申し入れを快諾する。

「嬉しかったですね。松尾も苦しんでると思っていたので、自分で転機にしたかったんだろうと。普段はすごくおとなしい子だから、それが自分で考えて『変わらなきゃ』と思って言ってきてくれたんですから。だから『わかった。おれはサブに回って応援するから、頑張れよ』と伝えました。私も若い頃、ボクシングを5年くらいやってましたけど、ボクシングができるのはほんの一瞬のことですから、悔いのないようにやってもらいたかったんです」


「言い方は悪いかもしれないけど、人のいいボクシングをしていた」

 岡田戦後、2003年2月に決まっていた斉藤友彦(草加有沢)との8回戦の約1か月前から、宮田トレーナーに代わって松尾を担当している伯耆淳トレーナーは、松尾についてこんな印象を持っていたという。

「強いっていう感じではなくて巧いタイプですね。ボクシング的な巧さっていう点ではほんとに巧いんですよ。ただ巧さっていうのが勝敗に影響するかっていうと、なかなか影響しないんです。ボクシングの場合は。あくまで強さっていうのが前面に出やすいっていう。部分部分は巧くても、全体の流れの中で押されてると負けちゃうんですよねやっぱり。だから今度はその巧さを攻撃につなげられるように変えていきたかった。難しいのは、入る間際にパンチをかわしながら入ることなんだけど、その部分はできてたんですよ。でもその後もう1回攻めないからポイントにならない。かわして打ったところでおしまいになっちゃう。攻めの厳しさが足りなかったんですね」

 松尾に植えつけようとしたのは、現役時代にハードパンチャーとして鳴らした伯耆トレーナーらしく、「攻めの意識」だった。


「それでも斉藤戦のときは巧さでなんとかなると思ってたんですよ。でも負けちゃったんで、原口戦のときは先手を取って、なおかつ攻めてきたところをかわして、もう1回返すっていうのを課題にしたんです。今までは常に後手に回るようなとこがあったので、それはもうやめて、最初から自分で組み立てていくボクシング。攻撃する時間が長くなればポイントにもつながりますからね。でも、まだ足りないとは思ったんですよ、はっきり言って。でも意外とポイントになってて、3ポイントくらい差がついてたんでまあよかったかな」

 以前、元日本スーパー・フライ級チャンピオンの木谷卓也が、ボクサーとトレーナーの関係について、こんなことを言っていたことがあった。

「ボクサーとトレーナーのフィーリングっていうのは微妙なもの。どんなによいトレーナーであっても、誰とでも合うというわけではない。どんぴしゃで合うなんていうことは滅多にないのではないか」

 コンビを組んでから、まだ半年と少し。真の結果が出るのはまだ先ではあるが、トレーナーの変更を自ら申し出たことが、自身に好影響を与えたのは確かである。松尾は言う。

「例えて言えば、今までは自分でビデオを見て、ただ『すげえ』って思っていたことを、伯耆さんがどうすごいのか、中身をひとつひとつ解説してくれるような感じ。伯耆さんに見てもらうようになってから、毎日が新鮮で、1日1日強くなっていく自分を感じています。ボクシングをこれだけ長くやってきたけど、こんな風に思えたのは初めてです。今、ボクシングがすごく面白い」

 最近の松尾について、大杉マネージャーはこう評する。

「以前は頼りないところがあって、心配になることも多かったんですけど、今はもうすっかり頼もしくなって、私も声をかけづらい雰囲気になりました」

 宮田、伯耆両トレーナーは松尾の可能性について、異口同音にこう語る。

「すでにランカーの力は持っています。タイトルマッチまでは行けると思う」

 原口戦の勝利で負け癖も払拭し、新たなスタートを切った。充実した毎日を送る中で、松尾は「今は目標があります」と言う。

「チャンスをもらえたら、今年中にはランキングに入って、いつかタイトルマッチをやりたい。それで、大番狂わせでチャンピオンになる。それを狙ってます。この戦績だからチャンピオンも油断すると思うし(笑)」

 目標を持った人間は強いという。今まで自分の力を実感できなかったから持てなかった目標を、今、松尾は自信を持って口にする。日本ランカー、世界ランカーと続いた対戦で、目標とする場所がどの辺にあるのかも、すでに確認済みである。それは夢ではない。あくまでも目標なのである。大番狂わせの予感がする。




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