丸山幸一のインサイドブロー

夢の続き 4


(前回から続く)

 「今日から君のところに住む」と言ったSは、しかし、翌朝出ていった切り、何日経っても現れなかった。それでも私は不安に怯えた。私の不安は何だったのか。自分という人間がSと比べてどれほど劣っているか。ボクシングは論を待たず、知性も行動力も胆力もSに明らかに劣っている自分を郁子に知られることへの不安なのか。或いは突然「日本を壊す」と宣言したことへの不気味さなのか。それとも・・。Sが私達の前に姿を現してから、私は郁子がいつかは激しくSに惹かれていくに違いないという確信に近い感情を抱くようになっていた。自分で認めたくなくても、それが私の最大の不安だった。

 「Sさん、来ないじゃない」。郁子が突屈に言い出したのは10月も半ばになり、木々が僅かに色づき始めた頃だった。反射的に私は言った。「来て欲しいのか」。それは口に出してはならない言葉だった。次ぎの瞬間、私は予期していた郁子の眼差しに出会った。それは明らかに私を蔑んだ眼差しだった。

 少なくともSが我々の前に現れるまで、私達のあいだには優しい気持ちの交流があった。その感情はSの出現と共に潮が退くように萎えていった。いや、そう感じていたのは私だけだったのかもしれない。・・押し黙っている郁子を背に私は部屋を出た。行く先は駅前の雀荘だった。


 郁子が渋谷のレストランのウエイトレスとして得る1カ月の収入は2万円余である。当時、私達が住んでいるようなアパートの部屋を借りて、男一人が何とか1月暮らせる金額は3万円だった。私が郁子に共同生活を提案した時点で大学に休学届けを提出していた郁子だったが、私は秋の学期が始まると一日置きに授業に出ていた。授業に出ない日は東京都の衛生局から委託された業者の元で「糞尿さらい」の仕事をしていた。まだ都内に下水が完備されていない時代である。バキュームカーに運転手を入れて3人で乗り込み、主に商店街の浄化槽の「汲み取り」を行うのだ。 100人槽、200人糟といった浄化槽の鉄のフタを開け、まずアルバイトの私が降りていく。1カ月も放って置かれた糞尿は干からびてカチカチになっていた。その糞尿にバキュームのホースでたっぷりと水道の水を注ぎ、長い木の杭で根気よくかき回すのだ。柔らかくなった時点で、バキュームで一気に吸い上げるのである。その仕事が一日2300円で、一日置きでも月2万7千円余になる。郁子のバイト代と合わせれば二人で暮らすには十分な金額になったが、私にはもうひとつの稼ぎ場所があった。それが雀荘だった。

 初めのカモは大学のクラスメイトだった。高校時代に手を染めていた麻雀を大学の友人達に教えまくり、その彼らと卓を囲むのだから、まず負けない。しかしやがて彼らに敬遠されだした私が行き着いた所が私鉄沿線の雀荘だった。どこの雀荘でもフリー客用の一般的なレートは千点50円でウマが5百円、3百円。夕暮れ時から現れるのは下手の横好きの商店主達である。私は郁子が遅番の日には必ず駆けつけた。当初は私の雀荘通いに苦情を言っていた郁子も、収支決算が月、2,3万のプラスになることを知ると、自分が遅番の日に限る、という条件で認めてくれたのである。

 けれども、やがてその雀荘は私にとって逃げ場所になっていった。Sが「ここに住む」と宣言してから、私は毎日のように南風荘という雀荘に通った。帰りは郁子より遅くなった。それでも郁子は私のための夕食を作って置く。私の帰りの時刻がさらに遅くなっても夕食は必ず小さな卓袱台の上に置かれていた。

 そんな私をまるでじらすようにSはやって来なかった。しかし、私の中にはある疑念が芽生え始めていた。Sが来ないのは、郁子と示し合わせて、どこかで二人して遭っているのではないか、という疑念である。私はある意味でその機会も時間も十分に与えていた。もちろん根拠がある訳ではない。にも拘わらず、私は激しい嫉妬に苦しんだ。ただ、同時に私は、その自分自身に得も言えぬ快感を覚えていたのである。まるできりきりと痛む虫歯に覚える快感のような・・。


 68年10月21日。その夜、新宿の街の各所で火の手が上がった。その日は、米軍のタンクローリー車が、ベトナムへ飛び立つ飛行機の燃料を横田基地まで運ぶために新宿を通過する、という情報が、左翼運動家達の耳に入っていた。夕暮れと共に新宿の西口広場に、中核(革命的マル主義者学生同盟中核派)革マル(同革マル派)らのセクトやベトナム反戦を訴える学生が集まりだし、その総数が5千人を越えた頃から、彼らは一斉に地下から新宿の街へとデモ隊を組んで繰り出していった。すると新宿通りと靖国通りの交通を遮断して待ちかまえていた機動隊が、間髪を入れずにデモ隊を潰しにかかった。

 ヘルメットと角材で武装したデモ隊の隊列が次第に崩れ、機動隊の警棒で殴打された学生達の額から鮮血が吹き出し、通りは瞬く間に血の海となっていった。警察サイドにとって誤算だったのは、この光景を垣間見た野次馬の多くが学生側に味方し、デモの隊列に加わったことだった。さらに機動隊とデモ隊を群衆が取り囲み、いつもは、ネオンに彩られた華やかな街が、瞬時に殺伐とした無頼の街へと変じていった。

 やがて新宿駅構内に進入した活動家が山手線の車両に火を放った。それをきっかけに、通りに止まっていた車に、火炎瓶が投じられ、はがされた商店の看板が火勢をさらに強めていった。多数のケガ人を救済するための救急車がけたたましいサイレンを鳴らして現場に近づいてくる。しかし、群衆が邪魔になって、なかなか、けが人を救出することが出来ない。・・その日の新宿は戦場そのものと化していた。やがて機動隊から催涙弾の入ったガス銃が何百発も発射され、それを潮に群衆が散り始め、公務執行妨害と凶器準備集合罪による約1000人の逮捕者を出した「新宿騒乱事件」は、翌日の早朝、終結したのだった。

 私はこの光景を雀荘のテレビで見ていた。「こうしちゃあ、いられない。こいつをテレビで見ているってのは殺生だ」と常連のマサやんや洋品店を経営するナベさんは、夜が更ける前に、新宿へと出向いて行ったが、私は客が俄に少なくなって卓が囲めなくなった南風荘で、ただ無気力に酒を飲んでいた。だから、その顛末はテレビと翌日の夕刊で知っただけである。深夜に帰ったアパートの部屋は寒々としていた。そこには郁子の姿はなかった。卓袱台の上にも、夕食は置かれていなかった。来るときが、来たか。私は無力感と共にそう思った。ただ、郁子が持ち込んだ衣類もバッグもそのままなのである。息を吸い込むと、郁子の香りを感じた。郁子はまた戻ってくる。そう考えた私の両の目から涙が流れた。

 郁子を私はまだ愛していた。いや、それは愛着といったほうが適切かも知れない。しかし、もう郁子が私を愛していないことは分かっていた。二人の間の溝を作ったのは私自身だった。休学して二人の生活を支えようとした郁子に対し、私は休学することを拒んだ。その果てに、郁子が仕事を終えて帰宅する時間になっても私は雀荘で卓を囲んでいた。そして二人の間にSという無形の存在があった。「二人の生活を破壊したのはSだ」。そう思いこもうとした。しかし、生活を破壊したのは私の身勝手な、妄想に他ならなかった。

 
 「新宿騒乱事件」から1週間が経った10月28日。その日は国際反戦デーで、学内では各セクトが個々にジグザグデモを繰り返していた。その光景をぼんやりとみていた私は背に強い視線を感じた。咄嗟に振り向いた私の目に郁子の姿が飛び込んできた。小さく「やあ」と声を出した私に「うん」と小さく郁子が答えた。”この1週間。どうしていたんだ”。私は喉まで出かかったその質問を、やっとの思いで飲み込んだ。「この前、デモに参加したのよ」。私の疑問に自ら答えるように郁子が言った。

 私と出会った頃の彼女は「中核の活動家」を認じていた。といっても大学に入って間もない彼女が重要なポストにあるはずもなく、だからこそ彼らにとって「反革命」そのものであるような私との時間を楽しむことが出来たのだった。やがて郁子はその組織に全く背を向けるようになった。私との共同生活は、彼女にとって自分の身を守るための手段でもあった。もし、彼女が組織について多くの情報を掴んでいれば、郁子の身は大袈裟ではなく、危険に晒される可能性があったからだ。しかし、組織は敢えて何の行動も起こさなかった。つまり、郁子は中核の上層部にとって、取るに足りない存在だったのだ。

 「あなたはどうせ分からなかったでしょうけど、レストランは1週間前に辞めたの。あの日の昼に”仲間”に会って、そのまま、新宿へ行ったのよ」。そして郁子はこう続けた。「AさんもDさんも”官憲”の手に渡った。それを見て、私の居場所はもうあのアパートにないことをはっきりと知ったのよ」。「それで」。間の抜けた質問をした私に郁子が何の抑揚もない口調で言った。「後で私の荷物を取りに行く」「そうか」と頷いた私の声が震えていた。「これから、どうするんだ」。そう尋ねた時、彼女の遙か彼方からこちらに近づいて来る男の姿が目に留まった。Sだった。

(以下次号)



 


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