| Text By 船橋真二郎 Photo By 山口 裕朗 |
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川向 虎蔵(かわむかい とらぞう)/北澤ジム |
負けてなお、上に行くことを予感させる選手がいる。4月10日、スーパー・フェザー級の6回戦で田代征史郎(トクホン真闘)に判定で敗れた川向虎蔵(北澤)がまさにそうだった。6戦5勝(1KO)1分で初の6回戦を迎えた川向と、8戦6勝(4KO)2敗で3度目の6回戦を迎えた田代。試合は強打に勝る田代が押し、川向が負けじと一歩も引かずに応戦する激しい展開になった。両者の意地と意地とのぶつかり合いは、僅差の判定で田代がA級昇格を決めたが、強打に鼻を真っ赤にさせながらも、試合終了まで一歩も引かない川向の真っ直ぐな戦いぶりの方が、不思議に印象に残った試合だった。この「川向虎蔵」というインパクトある名前のボクサーを北澤ボクシングジムに訪ねた。 「ぼくは負けることには慣れてますからね」
田代戦まで無敗だったはずの川向虎蔵は淡々と語った。負けたのはもちろんプロでのことではない。彼が言うのはアマチュア時代の経験である。年鑑によれば戦績は30戦20勝(10KO・RSC)10敗とある。これがあくまで自己申告の数字に過ぎないのは、切りのよすぎる数字が示している。 「実際にはもっと負けてるかもしれません」 だが、その負けが意味するところは、決して数字だけではわからない。 川向が在籍していたのは、全国から高校チャンピオンが集まってくるアマチュアの名門中の名門、日大ボクシング部。輝かしい勲章を引っさげて入部してきた部員たちの中にあって、札幌工業高校3年時のインターハイベスト4という実績はかすむ。日大ではリーグ戦のレギュラーの座を勝ち取ることすら並大抵のことではない。しかも同学年で同階級には、現在も国内トップアマとして国際大会でも活躍する飯田育夫がいた。「負けることには慣れている」。その言葉の裏には、ただ試合に負けたというだけではないもっと大きな敗北感があったのだ。 「大学時代のぼくは補欠で食事当番。部員30人分の食事を作ってました。おかげでボクシングじゃなくて料理の腕前が上がりましたよ(笑)」 冗談めかして笑うが、その屈折した思いを端的に示しているのが「川向虎蔵」というリングネームだ。実は本名ではない。本名を湯藤将志(ゆとう まさし)という。プロデビューするとき、幼い頃に亡くなった母方の祖父の名前を借りた。プロでボクシングをやっていることが、日大の仲間にばれないようにと。 「いろいろと雑音が聞こえてきそうだったので……」 父方の祖父の名前では、名字から元日大の湯藤とばれてしまうかもしれない。そこまで考えた。2001年5月1日にプロデビュー。すでに約2年が過ぎているが、日大時代に味わった敗北感は、川向の中でまだ払拭されてはいない。
「コンプレックスがないといえば嘘になりますね」 1977年4月2日、北海道千歳市の出身。ボクシングとの出会いは小学校4年生のときに読んだ,漫画『がんばれ元気』だった。親にボクシングをやりたいと訴えたが、周りにはその環境がなく、思いはそのままフェイドアウトしていった。 もともと体を動かすことが大好きな活発な少年だった。小学2年から中学1年までの約5年間は空手を続け、中学のときには陸上部に入部した。その陸上部では中・長距離の選手として活躍。1500メートルで石狩管内の新記録を出したこともあったという。 「中学の頃はボクシングのことはすっかり忘れて、1500メートルにはまってましたね。でも、ぼくは決して運動能力が高い方ではないんです。自分を追いこんでがんばるのが好きなんでしょうね。小学校のときにやってた空手の稽古も結構きつかったですし。中・長距離っていうのは短距離とは違って、努力すれば努力しただけ記録に現れてくるんです。そういう意味では自分に向いてたのかもしれませんね」 何ごともなく順調に進んでいれば、高校は北海道の陸上の強豪校である、東海大四高校に進学することを考えていた。だが中学2年の終わり頃、顧問の教師とケンカして陸上部を退部。原因は教師のつまらない「言いがかり」だったのだが、ほとんど練習に顔も出さず、練習メニューも生徒任せという、その教師のやる気のなさに、日頃からたまっていた怒りが爆発したというのが実際のところだった。 「やる気も情熱もまったく感じられなかった。スポーツにはある程度、根性論も必要だと思いますよ」 それが川向の考えだった。 そんなとき、たまたま従兄弟の家で久しぶりに読んだのが、『がんばれ元気』だった。小学4年のときに抱いたボクシングへの思いがよみがえる。「これしかない」。陸上という目標を失ってしまった川向にとっては、決して小さくはないきっかけとなった。しばらくして、家に出入りしていたクリーニング屋のおじさんの口から、札幌工業高校にボクシング部があることを、母親を通して知った。偶然、その息子の通っていた高校が、札幌工業だったのだ。川向の進む道は決まった。
だが川向が初めて実際にボクシングに触れたのは、札幌工業のボクシング部ではなかった。高校入学前の春休みの約1か月間、札幌にある赤坂ジム(現協栄札幌赤坂ジム)に、ボクシングを体験しておきたいと通ったのが最初だった。 「あのときのモチベーションが今の自分に欲しいくらい。世界チャンピオンになるんだって希望に満ち溢れてたときですからね。千歳から札幌までは電車で1時間くらいかかって、ジムまではそこからさらに自転車で30分から40分くらいかかったんですけど、その1か月間は休まず毎日通いました。練習では会長さんに怒られたりもしたけど、ほんとに楽しかったんです。午後2時くらいに家を出て、夜の9時までジムにいたくらいですから(笑)」 プロの選手でも気さくに話しかけてくれるようなアットホームさが、赤坂ジムにはあったという。まさに揚々と夢への一歩を踏み出したという1か月だった。 しかし、当時の札幌工業ボクシング部の雰囲気は、赤坂ジムとはまったくの逆だった。理不尽なまでの上下関係に川向は苦しめられる。 「5時間目の授業くらいから、この後に待っている先輩たちの"いじめ"をどう回避するか。そのことだけで頭がいっぱいでした。まあ根性は鍛えられましたけど(笑)」 後に問題になり、その"いじめ"はなくなったが、最初26人いた同級生のうち、残ったのはわずかに8人だけだった。 興味を持ったことは中学の頃の陸上以外、途中で投げ出したことはない。自らを「執念深い」という持ち前の粘り強さと、世界チャンピオンになるという夢を支えに、3年のときには高校時代の目標であった全国大会出場を果たし、インターハイでは前述の通りベスト4まで進出した。 高校卒業後は仕事をしながらプロを目指そうと考えていた。だが両親、特に母親からの「卒業しなくてもいいから、大学生活は経験しておきなさい」という説得に折れ、「大学で体を鍛え直してからでも遅くはない」と進学を決めた。日大を選んだのは、当時日大ボクシング部に在籍していた札幌工業のOBの紹介で、推薦してもらうことができたからだった。 大学2年目まではまだよかった。1年のときに出場した全日本選手権でベスト8に進出。2年のときにはライト級でリーグ戦の初戦からメンバーに抜擢された。 「1年目から別格だった飯田はその頃はフェザー級だったんで、あいつとの競争に勝ったわけではなかったんですけど、リーグ戦に出場することができて、すごいやる気になったときでした」 そのやる気も長くは続かない。リーグ戦の初戦は勝利で飾ったが、2戦目にはKO負け。次の試合からはメンバーを外され、以降リーグ戦出場を果たすことはなかった。 「ボクシングを始めてから初めてのダウンでした。打たれ強さだけには自信があったんで、かなりショックでしたね。結局ぼくの経験のなさが出たんでしょうけど、そこから歯車がおかしくなっていったんです」
リーグ戦に出場できるメンバーは1階級にひとり。高校時代にチャンピオンになった経歴を持つ錚々たる顔ぶれの中にも、リーグ戦に出場できない選手は川向に限らずいた。「プライドの塊のような連中」の中には、当然やる気を失ってしまう者も出てくるという。悪い流れの中に川向も次第に流されていった。それでも3年のときに出場した全日本選手権ではベスト4。だがこの結果にも 「飯田や稲田(千賢=現帝拳)が、海外の大会に出場していて出てなかったから」 と素っ気ない。4年のときには肩を負傷し、思うように試合もできず、不完全燃焼のままアマチュア生活を終えた。 大学には5年目も通ってみた。だが、当然授業についていけるわけがない。退部後も日大の寮に残って練習を続ける者もいたが、その気もなかった。次第に大学から足は遠のき、解放感に浸りきって遊びまわったという。当時付き合っていた彼女の家に転がり込み、パチンコ屋でバイト、バイト仲間たちと飲み歩く、そんな生活を続けた。世界チャンピオンになるという夢はいつの間にかなくなっていた。残ったのは70キロ以上という体重とたるんだ腹、それだけだった。 人がその名前を変えたいと思うとき、そこには違う人間になりたい、つまり、生まれ変わりたいという願望が含まれているものなのではないか。北澤ジムを訪ねたときの川向、いや湯藤将志にも、その願望がなかったわけではなかった。 「高校を卒業するとき、ぼくには二つの選択肢がありました。ひとつは大学、もうひとつはプロです。ぼくは大学を選んだ。で、大学から先は選択肢がなくなったわけです。プロしか。行きつくところまで来てしまったぼくには最後のチャンス。大学のとき、悪い方向に流されたのは、結局ぼくの意志が弱かったということ。自分がどこまでできるか、今までのことをリセットして、もう一度がんばってみたかった」 だがプロでやりたいということは自分の口からは言い出せなかった。「太ってきたので」というのが表向きの理由だった。そんな川向に「プロでやってみないか」と声をかけたのは北澤鈴春会長だった。 「やる気があるなら、寮を作ってやるとまで言ってくれて。たいした戦績でもないぼくを拾ってくれた会長には、ほんとに感謝しています」 昨年9月の東日本新人王準決勝(1ラウンド1分20秒、偶然のバッティングにより川向の引分敗者扱い)のとき、日大の仲間にプロでやっていることがばれてしまった。それでもまだ「プロでやっている」と、胸を張っては言えないと川向は言う。 「日本ランキングに入って……、日本タイトルマッチまでたどり着くことができたら、日大の奴らもちょっとは認めてくれるかな」 北澤会長によれば「川向のよいところは真面目なところ」だという。ジムを訪れた日も、試合を間近に控えていたジムメートの吉田幸治との6ラウンドのマスボクシングを含め、約3時間近く、黙々とジムワークを続けていた。その姿からは、意志が弱く、流されてしまったという日大時代の後半を想像することはできない。自分を追い込んでがんばるのが好きな、最後の勝負に賭ける川向がそこにいた。
「アマチュアは、才能だけでも勝負できるようなところはあると思います。アマチュアは3ラウンド。そんなに練習しなくても、技術があって、要領のいい奴が、結局強いと思うんです。プロは試合が長いから、やっぱり練習して体力もないと。ぼくのように、素質がなくて、不器用な奴でも勝負できると思うんです」 ジムの壁に貼られたプロ選手たちの写真を指差しながら、北澤会長が言う。 「彼が入ってから、刺激を受けて伸びた選手も結構いるんですよ。中量級の選手なんかは特に。真面目に練習に取り組む姿勢はもちろんだし、日大でやっていただけあって、技術的にもしっかりしたものを持っている。北澤ジムに新しい風を入れてくれましたね」 川向が北澤会長に感謝していると言うように、「川向には感謝している」という北澤会長は、川向のポテンシャルに期待している。 「日本チャンピオンになれるだけの力は持っていると思いますよ」 コンプレックスを抱えたまま生きていくのは誰しもつらい。だがコンプレックスと向き合うことも、また同じようにつらいことである。 「落とした金はあきらめれば済む。だけど落とした意地は永久にあきらめきれない」 この言葉を残したのは、柳済斗とのリターンマッチに臨む輪島功一だったと記憶している。川向のプロでの戦いは、日大時代に落としてしまった意地やプライドを、取り戻すための戦いであると言い換えることができるのかもしれない。そして今はそこに、自分を「拾ってくれた」北澤会長に、結果で恩返ししたいという気持ちが加わった。タイトル挑戦、そして……。 北澤会長の期待に応えることができたとき、隠れ蓑ではない、プロボクサー「川向虎蔵」が誕生する。 |
