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ジムの出席簿の上位に記してあった自分の名前が、負けた翌月、下位に落ちていた。と同時に、若いボクサーのためにサンドバッグや練習場所を譲らされることが増えた。トレーナーも変えられた。
無言の圧力。
「俺のことやめさせようとしてるんだと思います」
キャリアは10年を、年齢は30歳をこえたそのボクサーは苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。俺もそういうボクサーになったってことですね……。
「でも俺、諦めないですから。やめるときは自分で決めますから」
が、目に憎悪に近い怒りを見せたあと、あーあ、と唸った。
「これからは試合までの戦いが増えるなぁ」
試合を組んでもらうための、である。
勝つ勝たない、上を目指す以前に、試合をすること自体が目標にならざるを得なくなるボクサーは少なくない。
かつて取材した中にも、そうしたボクサーがいた。
「……ところで、僕の戦績っていくつでしたっけ」
まるで外の天気はどうでしょうね?とでも聞くように、取材のさなか、そのボクサーは自身の戦績を聞いた。
「3勝と12敗、ですね……」
「そんなに負けてますか」
そう言うとフニャフニャと笑った。
「いつの頃からか自分の勝ち負けを数えるのが嫌になっちゃって」
どれほど罵倒されこづかれても、笑う以外許されない若手芸人のような笑い方だった。
彼はいつもそうだった。負けて戻った控え室でも、本心をその笑顔で覆っていた。
「いやぁ、すいません。また負けちゃいました、はは」
遠慮がちに控え室を覗く友人にはことさら明るい声を出した。
「おう、悪かったなぁ。なに、カメラ持ってるの? 俺が撮ってやるよ、はい、笑って笑って」
もう、負け慣れちゃいました。
何度か彼の口から出てきたせりふである。が、そんなわけはない。つねに笑い顔しか見せなかった彼が、一度だけ、仕方なくという風にこう答えたことがあった。
「うなだれた姿を見せたら、ますます自分が惨めになりますから」
一攫千金を狙ったのだという。ボクサーを目指した動機である。
幼少の頃から「誰が見ても貧乏だとわかる家が恥ずかしく」、だから自分の力で立派な家を建てるのが夢だった。
つまり目標は世界王者だった。が、デビューから3年間ただの一度も勝てず、夢はどんどん格を下げていった。日本王者、日本ランカー、6回戦、そのうち「ひとつ勝つこと」になり、いつしか「リングに上がること」が目標になってしまっていた。
「噛ませ犬としてでも使ってもらえるのなら、ありがたい」
負けが白星の倍になった頃から、会長には幾度も引退を、トレーナー転向を幾度も勧められた。が、そのたび頭を下げた。
「お願いします。6回戦に上がるまで……。」
こうも訴えた。
「負けにされたけど、自分では勝っていたと思っている試合がいくつかある」
会長も幾度か、仕方なく折れた。
「もう一度だけだぞ」
彼はいつもかぼそい綱を渡っているようなものだった。
「もう、やめろ」苦しげに諭す両親には、引退したと偽った。減量中は自分の部屋で食べるから、と母の用意した料理を自室に運びゴミ袋に捨てた。
「情けない話ですけど、そんなこんなで試合をするまでにいくつもハードルがあって。だからリングに上がった瞬間、自己満足に過ぎないけど、少しだけ誇らしい気分になれるんです」
いくら大幅に負け越しているとはいえ、20戦近いキャリアの4回戦ボーイの相手はかなり限定される。たいていはアマチュア上がりの選手の青コーナー側として駆り出された。
半端しかしてこなかったから。もう人生から逃げたくないから。
それが彼のボクシングに「しがみつく」大きな理由だった。「記憶から追い出したい」戦績を胸に、彼は彼なりに戦った。
「せめて6回戦に……」と願った彼は、だがその夢叶わず、4回戦のまま終わった。
控え室、悔しさを懸命に繕う敗者の姿を見ると、あのボクサーは今はどこで、何に向かっているのだろうと、時々思い出す。
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