丸山幸一のインサイドブロー

夢の続き 3


(前回から続く)

 「おい、石丸さんがむくれていたぞ」。芦沢清一大先輩から、そう声を掛けられたのは確か2001年の暮れのことだったと思う。聞けば「丸山はデイリースポーツにコラムを書いているくせに、俺のところには全然取材に来ないじゃないか」と口を尖らせている、と言うのだ。私はすかさず石丸哲三会長に連絡を取った。「無理に取材に来いと言ってんじゃないんだ。たまには面を見せろと言ってんだよ」。受話器の向こうから野太い彼の笑い声が聞こえてきた。その頃、石丸さんが手塩にかけて育てた仲田瑞男が、日本フライ級王者の坂田健史に挑戦することが決定したばかりだった。仲田は数学教師の免許を持っている異色のボクサーで、むしろこれ以上望めない取材対象だった。

 こうして久々に会うための格好の口実を得た我々は、取材が終わった夜、いつ尽きるともない話に興じた。夜が白けてきて、話題が途切れかかったころ、石丸さんがぽつりと言った。「郁子さん、だったよな」。私はその言葉を引き取って言った。「・・あいつ死にました。随分前になりますけど」。それきり会話は途絶え、それをしおに二人は別れた。その後、後楽園ホールで出会う度に雑談を交わしはしたが、腰を据えて話したのはあの夜が最後だった。あの夜から1年も経たないうちに石丸さんが急逝したからである。

 石丸さんは単に、郁子のことだけを私に聞きたかったのか。いや、彼が聞きたかったのは間違いなくSのことだったはずだ。


 1968年の初夏。初めてSとスパーをした際、Sの左目が「ほとんど見えない」と見抜いたのは彼だった。私は思いきって、Sに石丸さんの言葉を伝えた。「君だって分かってたんじゃないのか?」。首を振る私にSが笑いながら言った。「T会長は、とっくに知っているよ」「それでTさんは何と言ってきたんですか」「お前のパンチ力があれば、まだ当分勝ち続けられる。笹崎さんを見てみろ。隻眼ながらピストン堀口に何度も勝っているんだ。そう言った後、俺の見えない方の目を覗き込んで”あと、3試合やったらタイトルに挑戦させてやる”と言いやがった」「それで?」「その1試合目が去年の秋の試合だよ」

 私は驚いた。私が彼と知り合った頃、既にSの左目が失明状態だったこともさることながら、それを承知で試合を組んだT会長の神経に驚かされたのである。しかし、その試合を最後にSはリングに上がろうとはしなかった。そして私がその理由を知ったのは、2年以上も後のことになるのである。


 ジムからも遠のいていたSが、どうやって生活していたのか、いや、大体、どこに住んでいたのか。私は知りあった時から、Sという人間についてほとんど知らなかった。Sから私の住まいに電話があると私は喜々として指定された酒場へと出向いた。その場所は新宿だったり浅草だったり、その都度、違ってはいたが、ともあれ私にとって重要なのはSと酒席を共に出来る喜びだった。

 こういう生活が1年も続いた頃、つまり、Sと石丸さんが出会った68年の夏、私の生活にも変化が起きていた。大学の授業で知り合った郁子と、西武新宿線の新井薬師駅近くのアパートで共同生活を始めだしていたのである。風呂は勿論、トイレもない、古びたモルタル塗りの4畳半のアパートで家賃は6千5百円だったと記憶している。そのアパートの最初の客が石丸さんだった。「お前をボクサーと認めるヤツは今や誰もいないしな・・」。そう言いながら開けた風呂敷包みから飛び出してきたのは、ウイスキーの角瓶とスルメなのだった。酒を嗜まない石丸さんの厚意に、その夜の私と郁子はしたたか酔い知れたのである。


 「あなたがいつも話していたSさんだけど、最近、会っていないの?」。郁子が、そう切り出したのは二人が共同生活を始めてから1カ月が過ぎたころだった。私はSについて、どれだけ郁子に語り聞かせたことだろう。しかし私はSに郁子を引き合わせてはいなかった。郁子と知り合ったのがその年の4月である。Sと私は以前のように頻繁に会うことはなくなっていたが、私の実家に電話ひとつかければ全ては判明することである。

 ただ私にはSと郁子を引き合わせられない事情があった。理由は簡単だった。恐らく郁子が私に惹かれたもの、つまり、同世代の学生が思いもつかなかった深い考察や洞察、そのほとんど全ての出所がSの内部にあったからだった。私はSの思想や感じ方をオウム返しに郁子に語っていただけだった。私は何のオリジナリティーもない、平凡極まる自分を郁子に知られるわけにはいかなかったのだ。

 が、私のそんな浅知恵はSの突然の訪問で海の藻屑と消えた。まだ残暑の厳しい9月のある日、それも私達が眠りにつこうとした深夜、彼は私達のアパートの扉を静かにノックしたのである。

 「ねえ」。私を揺り起こしながら郁子がいきなり囁いた。「ひょっとしたらSさんじゃないの?」。郁子がそう言い終わらないうちに「起きてるか」という聞き慣れたSの声が静まり返った木造の廊下に木霊した。私は慄然とした。が、そんな私を無視したように「ちょっと待って下さい」。郁子が意外なほど明るい声で応じていた。


 68年からの2年間は暗い年だった。大学生の多くが革命の夢を見ていた。「左翼でなくば、人間にあらず」。そんな空気が学内に流れ、毎日、東京のどこかで大学改革を訴える無届けデモと機動隊がぶつかり合ってはけが人の山を築いていた。日本の学生にとって60年が日米安全保障条約阻止の闘争なら、70年に向けての闘争は安保阻止の名を借りた左翼闘争だった。加えて泥沼化の一途を辿っていたベトナム戦争が世界中に反戦の機運を高め、その反戦運動を通じて醸し出すエネルギーが彼らに世界革命の幻想を見させていたのだった。

 「俺にとってマルクス・レーニン主義の信奉者はあくまで敵だ。マルクスが意識的に排除したのは人間が10人居れば、10通りの自我があり10通りの歴史があるという事実そのものだった。人種差別も性差別も部落差別も凶悪な犯罪も、階級格差のー資本階級と労働者階級間のー解消によって解決出来ると信じたのがマルクスだった。人間の不幸の全てにして、唯一の原因が、彼にとっては階級的格差に立脚していた。共産主義の最終理念である富の万人への完全分配によって、資本主義の矛盾の産物である、全ての悪は消滅するー簡単に言えばそれがマルクスの思想だった」。Sから何度、マルクスに対する反感を聞いただろうか。当然ながら私はSの考え方に賛同した。


 だが、3人入れば暑さでむせ返るような4畳半の部屋で語ったSの言葉に、私は自分の耳を疑った。「とりあえず、俺は今の日本を壊したい。そこから何が生じるのか。それは分からない。しかし破壊からしか何かは生まれない。俺は日本に革命を起こすために闘うことにした」。Sの押し殺したような声が、明かりを消した部屋の中の私と郁子を襲った。Sがこの部屋を訪ねてきてから僅かの時間しか経っていなかった。Sは冬でも夏でも離さない鼠色に変色した黒いコートをまといながら身を横たえていた。

 「Sさんの”印し”は?」。Sと初めて酒を酌み交わした際にSが「自分には”デミアン”と同じ印しがある」と語ったその印しに私は言及した。「その印しが何なのか僕には分からないけど、Sさんをアナーキズムに駆り立てるのはその印しなんですか?」。「多分」。Sはそう答えると、すぐに寝息を立て始めていた。Sが再び私達のアパートを訪ねてきたのは、それから1週間後のことだった。

 折からの雨に濡れたSの体が、心なしか小さくなっていた。まだ郁子がアルバイトから帰宅していないのを見届けたSが、私に言った。「今日から、俺はここに住む」
(以下次号)


 


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