(前回の続き)
夢から呼び起こされた忌まわしい過去
イサヤ・イコニによってその在処を指し示された私の古いスクラップブック。そこにはイコニの原稿が載った新聞の切り抜きだけではなく、私が自分の記憶から削除したはずの、ある女とSのことに関するメモ書きがあったのである。
女の名を仮に郁子としておこう。私が郁子の死を知ったのはイコニの記事を書いた2年前、1985年の3月だった。その死を知らせてきたのは私と郁子の間柄を知っていた大学時代の同級生だった。「郁子死す・・」と乱暴に書かれた傍らに「Sの死から15年」という添え書きがあった。そんなノートを何故か私は、スクラップブック代わりに使っていたのである。原稿が掲載された切り抜きを張り付ける度に、そのメモの内容は私の意識の俎上に上ってきたに違いない。忘れたい記憶を反芻することに耐え難くなった私はそのノートを葬り去りたくなった。そしていつか所在が分からなくなった・・。大袈裟な言い方をすれば、そうやって私は耐え難い過去が分泌する汚物から自分を守ったのだ。
では何故、今になって夢を通じて、それもイコニに語らせるという念の入ったやり方でノートの所在を自分自身に知らしめたのか。その推理は後に回すとしてまずSと郁子のことを記憶の底から掘り出してみようと思う。
Sは、今は閉鎖されたTジムで多くの期待を担っていたプロボクサーだった。
1967年の夏。私がそのジムに入門した日、Sからいきなり酒に誘われた。その夜の酒席で改めて自己紹介した私にSが言った。「文学部の学生であるあなたが今、読んでいる本というのを教えて下さい」。ヘルマン・ヘッセとドストエフスキーの作品名を挙げた私にSが、突屈に言った。「ヘッセのデミアン・・。僕にもあのデミアンと同じ”印し”があるんです」。「印しですか?」「そう、カインの印しでもある、あの印し・・」。カインはアダムとイブが成した初めての子で、やがて生まれた従順な弟のアベルに激しい嫉妬を覚え、その挙げ句に人類初の殺人者となってエデンの園を追われた男である。そのカインには印しがつけられていた。追放されたカインを見つけた者が彼を打ち殺さないように、神が付けた印しだった。ヘッセの中期の代表作「デミアン」の主人公(デミアン)は旧約聖書の創世記に出てくるカインをこう解釈している。アベルがひたすら両親に従順な心優しい男なら、カインは深い知性と反骨の精神と、苛烈な情念を兼備したゼウス神のような存在だった、と。デミアンはそのカインの信奉者であり、彼もまた印しを持った人間だった。しかし、Sがどうして、いきなりそんなことを言い出したのか。デミアンの印しは、彼と同じ種類の人間にしか見えない、額の刻印だった。するとSは自分こそ選ばれた者、と言いたかったのか。それを尋ねようとした私をSが遮った。「いずれ、君にも僕の印しがどんなものか、分かる時が来ますよ」
初対面にもかかわらず、饒舌だったSは私にさらに謎をかけてきた。「(ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公の)ラスコーリニコフが物語の始めに世間から忌み嫌われていた金貸しの婆さんを殺すでしょう。あの時の凶器の斧だけど、どう使ったか覚えていますか?」。答えに窮しているとSが「宿題にしようか?」と私の顔をのぞき込むのだ。「いや、確か”峰”だった」。私が答えるとSは「その通り。では何故、峰だったのか」とさらに畳みかけてくる。「その方が確実に脳天を割れると考えたからでしょう」。「ちっとも分かってないな」私の言葉を一笑に伏したSが続けた。「あの斧をラスコーリニコフは婆さんが住んでいたアパートの詰め所(管理人室)で見つけている。”何やらギラリ青年の目を射た物”。それがドストエフスキーの表現だ。青年の目を射た物とは、斧の刃のことだ。それが重要なんだ」。Sの言葉はにわかにぞんざいになっていた。憮然としている私にSは小声で言った。「峰で打ち下ろせば、ギラリ光る刃はラスコーリニコフに向けられる。その刃で彼は自分自身を切り裂いたんだ。これまでの自分、まだどこかロシア正教の臭いが残る我慢ならない、凡庸な自分。その自分を断ち切ったんだ。そうしてラスコーリニコフは自ら罪の敷居を跨いだんだ。それは彼が凡人から非凡人に、つまり超人になるために必要な儀式だった・・。自分の精神を切り裂くためにも刃を自分自身に向けるためにも、斧の峰で婆さんの脳天をぶち割らなくてはならなかったんだ。分かるか、君に・・」 「罪と罰」の幾つかの評論を読んで、Sの解釈が誰かのパクリであることを知ったのは、ずっと後のことだった。だから、その時、私がSに抱いたのは、この1つ年上のボクサーに対する憎しみだった。「僕は高校もろくに出てない男だから・・」と繰り返しながら、自分の深読みとインテリジェンスをひけらかすS。何が印しだ。何が斧の刃だ。これほど嫌なやつに私は出会ったことがなかった。しかも彼は私が子供の頃から憧れていたプロのボクサーであり、T会長の期待を一身に担う天性のパンチャーなのだった。・・が、翌日の朝、私が覚えたのは、彼に対する憎しみよりも深い憧憬の念だった。やがて私は自分と一緒にいるSが誰よりも誇らしい存在に思えてきた。つまり私はSの虜になったのだった。
Sの10戦目の試合はその年の10月に行われた。それが初の6回戦だったSは2回に、痛烈な左フック1発で8つ目のKO勝ちを記録している。翌日、あるスポーツ紙は彼のことをベタ記事ながら、こう報じていた。「Tジムにスターが誕生した。この日のKO勝ちで戦績は9勝(8KO)1敗に。新人王こそ縁がなかったSだが、その強打と、巧みなコンビネーションは、サウスポーとオーソドックスの違いこそあれ、恰も海老原博幸を彷彿させた」。
68年の初夏、私は大学の数人のボクシング仲間と同好会を創設した。Tジムには2カ月ほど通っただけだった。練習をさぼり、Sと飲み歩いていた私はT会長の逆鱗に触れ、あっさりと除名されていたのである。
同好会を積極的に援助してくれた人の中に、昨年の7月に急逝した石丸哲三さんがいた。石丸さんは後にハワイでプロになり、引退後は周知のように石丸ジムの主催者として名指導者振りを発揮するのだが、その時は私が籍を置いていた大学の5年生で暇を持て余していたのである。私がしばらく試合から遠ざかっていたSを石丸さんに引き合わせたのは、夏休みに入る直前だったと思う。プロでの戦績を聞いて興味を覚えた石丸さんは、すかさずSにスパーを申し込んだ。石丸さんは東京5輪の代表にこそ漏れたが、アマとして大きな実績を残したボクサーだった。
2ラウンドのスパーが終わった石丸さんは私にそっと囁いた。「強いね。決して大袈裟ではなく、世界も取れる素質があったんじゃないか」。「そうでしょう」と頷く私に石丸さんが言葉を継いだ。「でもあいつ、左の目、が相当悪いよ。ほとんど見えてないな」「まさか」と訝る私に「間違いないと思うよ」。石丸さんが断定的にそう言った。
そして、その日を境に私とSとの、後に郁子を巻き込んだ、悪夢のような日々が始まるのである。。
(以下、次回)
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