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行きづらい場所だけれど、敗者の控え室に私は行く。といってもなにか質問をするわけでもなく、かける言葉もなく、他の記者の人たちとの問答を聞き、表情や控え室で行われていることをただ眺めているだけなのだが、そこでは、負けるということ、を少しだけ感じるのである。
先日もタイトルを失ったばかりの、前チャンピオンとなってしまったボクサーの控え室へ行った。ドアを開けたとたん、オーナーの声が飛んできた。
「どうしたの、うちの、負けたんだよ」
オーナーとボクサーは向かい合ってパイプ椅子に座っていた。私がドアを開けたことで話が中断してしまったようだった。オーナーはけれど入ってきた私を含め数人の記者を拒絶するでもなく、再びボクサーへと顔を向けると続きを始めた。
「驕りだよ、敗因は驕りッ。お前、チャンピオンになって気持がゆるんでたんだよッ」
その勢いの前で敗者は 「……はい」と力無く頷くだけだ。その背後にはトレーナーが立っていた。前で手を組み、頭を垂れ、やはりオーナーの声を黙って受け止めていた。
オーナーは、記者さんたち、なにか聞くことあったら聞いてやってください、と幾度か思い出したようにこちらを向いたが、憤りはまだまだ収まらぬようでやはり言葉を発するのはその人だけだった。
「ちゃんと走ってたのかよ。心に隙ができてたんじゃねぇのか、おい……。」
他の記者たちを見ると、ノートに目を落としたり床の一点を見つめていたりする。で、私はこういうとき、たいていボクサーの背中を見ている。この日は、白いなぁ、と思いながら眺めていた。彼の肌は生まれてこのかた陽を浴びたことがないのではないかと思うような美しい白さで、それは「ボクサー」と違和感があった。
私はかつて敗者の後ろ姿というものに対して激しい拒絶反応を起こしていた。だから十年ちょっと前までボクシングは嫌悪していた。
幼い頃からボクシングを観る習慣がまずなかった。女ばかりのうちの家庭では格闘技を見る人間はおらず、テレビのチャンネルを変えるときにたまたま映ってしまうのを見る程度だったが、ボクシングの強烈さを感じるにはわずかな時間で十分だった。不思議と勝っている方、勝者には目がいかず、やられている方、敗者に目が釘付けになった。そして敗者の姿にはただごとではない、と思わせる何かがあった。野球やお相撲のように、明日もある、世界ではなく、約束事の上に成り立っている世界でもないことは子供心にも感じた。その酷すぎる何かは私を沈鬱にさせ、数日間、正体のわからない不安と恐怖心をひきずった。ボクシングなどというものとは無縁でいなければ、と思ったことを覚えている。
が、今、控え室でボクサーの白い背中を見ている私がいる。ボクシングと、ボクサーと関わりのない人生なんて虚しいと思ってさえいる。人間なんてわからないなぁと思う。とはいえ、かつて自分を脅かしていた敗者の姿を平然と見られるわけではない。それは慣れないことだし慣れてしまいたくないとも思う。
私はたぶん、気持を折り、体と心のあちらこちらを痛めた人たちが再生していく様を見たいのだろう。目にできること、自分に書けることなどほんの断片でしかないけど、だから試合直後の生々しい姿を見ておきたいのだろうか……などと所在ないのに控え室にいる理由のつじつまを合わせてみたりする。
「……いつもお前は中盤から盛り返してきたじゃねぇかよォ、いつも逆転して勝ってきたじゃねぇか、それがお前のスタイルだったろ? いったいぜんたいどうしたんだよ、今日は、なぁ、おい……」
控え室に響く声が、淋しい調子になってきた。
「ね、みなさん聞いてよ、こいつはね、前半にいつもやられちゃうの。倒されちゃうの。でもそこから立ち上がって向かっていくんだよ。そこからの頑張りが凄いやつなの。それが今日はどうしちゃったのかね。いつもは違うんだよ、ほんとのコイツは違うんだよ……」
酷な怒声は、オーナーの哀しい叫びだったのだ、と思った。
花束や荷物を片づけていたスタッフの一人が、チャンピオンベルトのケースを持ち、部屋を出ていった。
四年ほど前から、ベルトのケースの消え方が気になるようになった。
「チャンピオンになるとこんなに取材の人がきてくれるんですね。……すげぇや」
別のあるボクサーがチャンピオンになった夜のことだった。彼は控え室に入りきらないほどの取材陣を見回すと無邪気に笑った。
それからわずか三か月後、彼は初防衛戦で敗れた。そのとき控え室で彼を囲んだ記者は三人で、あの無邪気に笑っていたボクサーは顔を伏せたままでいた。
「……いえ」
「自分が弱かった、です」
「……わかりません」
どんな問いにも返ってくる言葉はひと言だけ。口調には、口を開くのが苦痛であることがありありとしていた。だからあっという間に問答は終わり、二人の記者も私も「どうも……」と引き上げようとした。と、そのときボクサーが顔を上げ、「あの……」と一人一人の目を懇願するように見つめた。そして「なんなんですかね、自分の体が自分のものじゃない感じだったっていうか、これがいわゆる初防衛戦のプレッシャーってやつだったんですかね。練習では調子よかったんですよね、どうしちゃったのかな……いや……」と早口で喋り始めた。深読みかもしれないが、行かないでくれ、と言っているように見えた。
とそのとき、ドアが開き、遠慮がちに顔を覗かせた人がいた。新チャンピオンのジムのスタッフだった。
「あ、ベルトのケースを……」
ボクサーは口を閉じた。さきほどまで自分のものだった黒いケースが運び出されるのを、茫然と見つめていた。そしてドアが閉まるのを見届けると、なにかを諦めたように目を伏せた。
控え室を出ると、中から、わっ、と泣き出す声が聞こえた。
ある日の控え室、の光景−−。
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