|
ウィリー・ダーンの思い出、の巻
私の名前はヨシコというのだが、この人はヨーコと呼ぶ。何度教えてもヨシコと発音できず、「あぁぁぁぁぁぁもういい、お前はヨーコでいい!」と逆ギレし、三年前彼の練習生になった日からそうなったのである(そのあたりの経緯についてはバック・ナンバーにございます)。
ウィリー・ダーン。66歳。N.Y.在住のボクシング・トレーナーである。
自らをタフ・ガイと呼び、つねにカウボーイハットとブーツに身を包んでいる。そのいでたちはファッションでなく、事実カウボーイであり、週末はニュージャージの牧場に馬乗りに行く。
さて彼に教わっていたひと月のあいだ、私は実によくせびられた。
「いやぁ、今週は何かと物入りで金がなくてなぁ。ついては3ドルばかり、くれ」
貸してくれ、ではなく、くれ、である。ストレートである。気持いいではないか。
20ドルといわれたなら断りやすいが、彼はつねに実に微妙な金額を要求してきた。3ドル、2ドル、4ドル。 現金ではない場合もあった。
「コーヒーが飲みたい」
言うまでもなく、買ってくれ、の意である。練習が終わるとふたりでジムのそばにあるデリに行った。レジでお金を払おうとすると、彼は、すっ、と横から朝鮮人参ドリンクなどを差し出し、ついでにこれも、と店員に言った。私に尋ねんかいッ。
ウィリーはナンバーズだとかスピードくじを買うのが日課なのだが、それは自分で買った。後ろめたさがあったのか、いちど私にも買ってくれた。でそれが20ドルをあててしまったのである。うひゃー、当たったよぉん、と換金してもらった紙幣をヒラヒラさせると、横で外れたウィリーが唇を噛みしめていた。気の毒に思い、
「ウィリーのお金で買ったくじだからあげる」と言うと、そこは男らしく
「いや、お前があてたんだから」と固辞したが、その目は虚ろであった。
時はクリスマスシーズンだった。イブの日のことである。練習が終わり帰ろうとすると、ウィリーがジムの片隅から私を手招きし、小声でささやいた。
「お前はこちらのシステムを知らないだろうからアドバイスしておくけど、クリスマスにはボクサーは自分のトレーナーにチップを渡すものなんだな」
まわりを見渡すと確かにボクサーも練習生も、トレーナーになにやら握らせている。なので、それ、いくらぐらいなのと聞くと、
「オー、それは感謝の気持次第だ」と片目をつむったが、ま、相場は25ドルから30ドルってとこかな、と具体的な数字をあげた。
仕方なくお財布からお札を出すと、私の手を握りしめて言った。
「お前はいい子だよぉ。俺に妻がいなかったらお前を嫁にするところだ」
私の気持は聞かんのかい。
こんな話ばかり書くとこのトレーナーがとてもせこいようであるが、太っ腹なところもあるのだ。帰国するときには20年ぐらい前の試合のポスターを数枚プレゼントしてくれたし、練習の最終日にはコーヒーとクッキーをごちそうしてくれた。
ま、その際、「ポスターのお礼はカウボーイブーツかシャツがいいな、サイズはXLな」 と付け加えるのを忘れなかったが。
さて、前置きが長くなったが今回、ひさしぶりのジム訪問である。ジムに行くと、オーナーのオラジデ夫妻は覚えてくれていたが、何度ライターだと説明しても私のことをカメラマンだと思いこんでいて、また写真を撮ってくれといった。会長室の壁を見ると、前回記念に撮ってあげた写真が拡大コピーして貼ってあるではないの。引きのばされたら素人写真ぶりがさらに明らかなのに、それでもしょぼいデジカメを向けるとふたりは満足げに笑った。
さてウィリーである。別の意味でもタフガイであった彼が、ひとまわり小さくなっていた、ように見えた。私が成長したのだろうかと思ったがやはりそんなはずはなく、彼が縮んだのであった。
「半年前にワイフを亡くしてなぁ」
笑ってみせるが、確かに笑顔に張りがない。5人の子供と6人の孫がいるがみな離れた州に住んでいて、突然のひとり暮らしにまだ慣れないのだ、と言った。
そんな話をしながらジムを出た。ふたりでよく出かけたデリは不況で潰れてしまったというので、近くのバーに行くことにした。かつては副業を持っていたので夜早く寝なければいけなかったが、妻の死を機に辞めたので時間があるのだという。世界チャンピオンやビッグネームを抱えていなければ、トレーナーはボクシングだけで食べていけない。ウィリーは最近まで夜中3時に起き、配送の仕事をしていた。
この日は私が奢るつもりでいたが、バーにつくとなんとウィリーがお酒を買ってくれた。ドキドキである。
そういえばウィリーのことはほとんど知らないなと思い、経歴を尋ねてみたところ、生まれは1937年。ルイジアナ出身で祖父母に育てられた。両親は籍を入れなかったらしく、父には別の女性に産ませた女の子がいてつまり腹違いの妹がひとりいること。少年時代はジョー・ルイスの全盛期で、試合のたびラジオにかじりき、当時の多くの黒人の少年たちが「第二のジョー・ルイス」を目指したように、彼もボクシングを始めたらしい。その後ニューヨークの叔母を頼って移り住み、働きながらアマチュアの試合に出る。
戦績は40戦。勝敗の内訳を聞くと、「11勝」と答えたきり黙ってしまい、目が激しく何かを訴えてきたので、何敗したかは聞けなかった。
さてよく考えると、私には取材できるほどの語学力はまったく持ち合わせていないし、空きっ腹に飲んだビールであっというまに頭はぼんやりしてしまったし、ウィリーは早口だし、で、要するに約3時間分の会話はほとんど理解できなかったのだが、ところどころ聞き取れた単語をつなぎ合わせると、俺もプロで世界チャンピオンになりたかったが右拳を痛めたのでプロ転向は断念したとか、なんといってもボクサーは打たせちゃいかんとか、プロボクサーは観客の心をつかむ試合をしなければいけないけれどアーツロ・ガッティのスタイルはイケナイとか、いくらお前がガッティ好きでもあのファイトスタイルは真似してはいかんぞとか、俺も年をとったとか、ボクサーは辞めたら勝つことはできないんだとか、今度俺の手料理を食べさせてやるとか、もう一杯どうだとか、ボクシングでは一部の人間以外儲けられないがそれでも俺はトレーナーをやったおかげであらゆる人種のいろいろな人間と知り合えたしボクシングとはコミュニケーションの手段だとか、お土産のシャツはないのかとか、ニシオカは良いボクサーのようだがこの前は1ラウンドで終わってしまったからもう少し見たかったなとか、いつブーツを買ってくれるんだとか、そんな話をしていたようである。
ここ最近、抱えていたボクサーがつぎつぎに引退してしまい、次が育っておらんのだと淋しそうな顔をしたが、まだこれから先、どんなボクサーに出会えるかわからんからな。と夢見る老トレーナーは言った。
別れ際、今度来るときは絶対ブーツかシャツかを贈ろうと思い、今何が欲しいと聞くと、「今か?
俺はなぁ」と、ニッと笑った。
「彼女が欲しい」
ウィリー・ダーン、66歳。いろいろな意味で現役であった。
|